日々の糧

はてなブログ招待されないけど、更新する。はよ招待せえ、誰か。。。
Don't You Know Who I Think I Was: The Best of
Replacements
B000ESSTNS

まず買ったもの。相変わらずUSインディーの旅路についたまま、俺の一生は終わりそうだ。リプレイスメンツのベスト盤。ベスト盤以上の何ものでもないが、かなり安かったので買ってしまった。これでX世代のアンセムのBastards Of Youngやパワーポップアイドルを歌ったAlex Chiltonなどの名曲がいつでも聞ける。まじこれらの曲はおすすめ。今でも通用するかっこいいギターリフとポール・ウェスターバーグのパンク声にしびれる。

CDはこのように特定の年代の特定のものしか聴かないが、その他では結構いろいろ聞いている。特に最近はBandcampから適当に音楽を発見するのが面白くなってきた。iアプリも無料で作られていて、ストリーミングだけでも楽しめる。なんと昨年、話題になったSufjan Stevensのこれも無料できける。
ジ・エイジ・オブ・アッズ [日本盤のみ 歌詞/対訳付]
スフィアン・スティーヴンス
B00400PSKI

思ったほど気に入らなかったけど、このアルバム。というかせっかくBandcampで音楽を聴くなら、もっと変なものとか、コアなものとか、誰だかわからない音源のほうがたのしい。Bandcampの検索枠に好きなアニメとかゲームとか音楽と関係ないもので検索するのがオヌヌメ。よくわからん感じにヒットして面白い。
そういったなかで見つけたのがコレとか。
http://projectdolphin.bandcamp.com/
Project Dolphinという日本のゲーム音楽のバカテクフュージョンカヴァーバンド。たぶん斑鳩とか適当に好きなSTGの名前を検索してヒットしたと思われる。基本的にフュージョンが嫌いな俺だが、ゲーム音楽というくくりだと素直に受け入れられる、というかすごく新鮮な感じ。ライブビデオもあった。

スト2のメドレーなのだが、素晴らしい。だがお客の盛り上がりから誰得感満載な雰囲気(笑)本人たちの真剣な演奏が逆にシュールだわ。
しかしこういうとき、そのままBandcampの音源ぶち込めないのがはてダ終わってるなと、せっかくエンベットのフォーマットがいろいろ用意されているのだが・・・はやくはてなブログ使いたい。。
ともあれ。

献本頂いたもの

前の著作に引き続き、大和田さんから献本。お金がないので非常に助かります。買う前でよかった(笑)
文化系のためのヒップホップ入門 (いりぐちアルテス002)
長谷川町蔵 大和田俊之
4903951472

すでに私のツイッター周りでは話題になっているこの本ですが、話題通り良い本でした(http://togetter.com/li/198779などを参照)。
もちろん、こういう音楽本は細かいこと言い出すとキリがないツッコミが入るので入門というところでバッサリわかりやすく切ってくれるのは本当に助かることだと思います。おおよそのヒップホップ/ラップの歴史については自分が知っているものとは特に違わなかったけど、ゲームやコンペティションという部分を強調する長谷川、随所に黒人研究の視点を入れてくれる大和田の対談はわかりやすいし、刺激的。これを気にヒップホップ/ラップに入門というのもまんざらでもありません。
大和田さんの前著からのながれでいうと、『アメリ音楽史』の90年代以降の増補とも読める部分も多いです。例えば「アフロ=アジア的想像力」とか「ラテン化」あたりの議論は。
残念なところは日本のラップ/ヒップホップにまったく触れられていないこと。まあこれは入門書として割り切るとしても、やっぱ今の若者にとっては日本語ラップのほうが入りやすいと思うし、それに見合うだけの日本語ラップがあるのになんだかもったいない気がする。続編に期待!
以下、特別に面白かった場所をピックアップ。

長谷川 東海岸のようにコンプレッションがかかったこもった音ではなくて、隙間を活かしたリヴァーブが効いた音なんです。これはロサンゼルスという地域性が大きいでしょうね。ニューヨークと違って、音楽が圧倒的にカーステレオで聴かれていますから。車で気持ちよく響くサウンドを志向したことで、音楽性が変質したところがあるんです。その点も郊外に住む白人にウケた理由なんでしょう。
(126-127)

長谷川 それとBPMが遅い。NWA時代の曲は110前後の曲が多いけど、このアルバムは90前後なんじゃないかな。最初に聴いたときはぜんぜんピンとこなかったんですけど、偶然カーステで聴いて、これは車で聴くための音楽なんだって分かったんです。
(128)

NWAからドクター・ドレーギャングスタ・ラップにおけるサウンド・プロダクションの特徴の話。BPMの低下については僕も同じ事を考えていたのだが、それがカーステであうっていう観点はなかった。むしろ、不良がダラダラとダラシなく歩くのにふさわしいのではと思っていたので。まあ実際にゴージャズなプロダクションのドレーの曲は確かにカーステに合いそう。というか完全にGTA的な気分にマッチするので、やっぱギャングスタという想像力はビデオゲームと切り離すことはできないのでは?って思いますね。
ところでギャングスタ系ラップの遅いテンポって、日本のヘッズに見られる手の上下運動に最適化されているという話もあって、この辺の感覚は日本とアメリカでは違うのかなーって思いますね。

長谷川 とにかく90年代に起きた、ヒップホップ・ソウルからティンバランドの登場という出来事は、黒人の歌ものの歴史でも50年に1回くらいの革命的な事件だったと思うんです。日本のR&Bっぽい人の曲を聴いて残念なのは、この時代に起きた変化を分かっていないことなんですよ。漫然とニュージャック・スウィングから感覚がつながっちゃっている。
(195-196)

これはまったく同意なのだけど、例えばコレとか完全にソカってるんですが、どうなんでしょうかね(笑)。映像は関係ありませんよ。

まあそれでも日本のヒットチャートに乗る音楽のほとんどは、良い意味でも悪い意味でもなく、ちゃんとAメロBメロサビみたいな構成まもってますよね。誰のためなんかと思いますが、正直、広告主のためだと思います。リル・ウェインの「アミリ」みたいな曲でタイアップとっても「どこがサビなんだ、どこをCMで使うのか」とキレられるだけですからね(笑)

あとリズムにおけるクラーベやセカンドラインの導入は、ロックでも同時期やそれ以前から取り組まれていたことは、ロックオタとしては言及しておかなければいけないでしょう(笑)
例えば

ドラムの手数が多い上に、音質のせいで聞き取りにくいとは思いますが、ここからカリブのビートを思い起こすのは無理ではないでしょう。そもそもロックンロールの初期の曲「ラ・バンバ」やガレージロックの名曲「ルイルイ」は明確にカリブ由来のものなので、それらに影響を受けているアメリカのパンク/ハードコアはイギリスのスカ系とはまた違った形でカリブのビートが入っていると思います。なんたってブラックフラッグもルイルイはカヴァーしているし。

ドラムはともかく、このギターリフにはカリブを感じます。

あとこの本で取り上げられていたこれ

セカンドラインのリズムを延々と強弱だけ変えるという驚きの発想。
これ聞いて思い出すのはやっぱこれ

いちおうBメロらしきものがあるにしろ、イントロとAメロ、サビはほぼ同じコード・ベース進行。この楽曲において一番の魅力は結局のところエフェクターのオンとオフで、サビに入るまえのエフェクターの踏み込みこそ命っていうのはコピーするとなおさらわかる。
録音物で音楽を表現するようになったとき、我々は五線譜では表されないサウンドを味わうようになったわけだけど、端的に音量や音圧ってものも表現の一部なんじゃないってこの二つの例から十分言えそう。


なんか全般的にラップの新しいところ、ロックにもあるぞ、みたいなイヤラシいツッコミになってしまったが(笑)、実際のところロックを研究している人が少ない以上、見逃すことはできないのである。

読んだもので書いてない読書メモまとめてどーん

読書メモっていっても思い出して書いてるからメモじゃないかも
パチンコがアニメだらけになった理由(わけ)
安藤 健二
4862485081

某パチンコファンに借りて読んだ本。ネットでも話題になったから読んだ人も多かろうが、なかなか興味深い本であった。どちらも共に斜陽産業であるパチンコとアニメ制作が結託してサバイブしているってのは予想していたどおりだけど、一番感銘を受けたのはパチンコ化するアニメを選ぶところ。当たり前だけどただ売れているアニメを手当たり次第に版権勝手パチンコにしているわけではない。パチンコ制作会社はパチンコ化しやすいアニメに話を持っていくのこと。要するにバトル要素が強くてパチンコの演出になじむものってことなんだけど、これって完全にゲームデザインのためにふさわしい物語を探すってことで、最近の私のテーマに非常になじむ。しかも現在のパチンコは完全にただの電子ルーレットになっているから、ゲームのシステム自体をデザインすることはほぼできない。あるのは演出、演出、演出。これってジャンル化の極みにある和ゲーと同じじゃんと納得しました。だからかー!一部のスパロボとか和RPGはとかコンボゲーとか弾幕STGのパチ臭さはクサさだけではなく、コアの部分に同じものがあったのだ。つまり、「ゲームはこれまでと同じで良い。必要なのは派手な演出だ!」というよくもわるくも日本のゲームデザインのあり方を図らずも抉った本でした。
音楽のカルチュラル・スタディーズ [単行本]
マーティン・クレイトン トレヴァー・ハーバート リチャード・ミドルトンほか 若尾裕
4903951405

かなり前に読んだ。論集であるわけだから個別のことまでここでかけないが、正直あまりいい訳ではない。アルテスさんはこういう本を訳してくれるのはうれしいのだが、正直出来がすこしわるい。自分はこの原著を大学のゼミで読んだのだが、そもそも良くない論文もあるけど、全体の趣旨を訳者らが理解していないのではないかというところがちらほら。なによりも原題が「The Cultural Study of Music」って「カルチュラルスタディーズ」にあえてしていないことをあまり踏まえていない。ミドルトンの書く序論を読めば、90年代以降のニューミュージコロジーやカルチュラルスタディーズにこの本が一定の批判的立場や距離をおく姿勢が分かるはずだ。だからこそイアン・クロスのような進化論と音楽の関係のような今までのカルスタではありえない視点があるのに・・・良い論文だけまたこんどコメントしたいが、論文の内容をゆがめる日本語サブタイトルはやめていただきたい。
教養としてのゲーム史 (ちくま新書)
多根 清史
4480066233

これは最近の新書。ようやくこの手の本が出てきたかという日本のビデオゲーム文化なのであるが、まあよくも悪くも新書としての新書。そもそもゲームのことよく知っている人にとっては当たり前のことしか書いてはないが、それでもなにかゲームについて書く時、ブログを引用するのではなく、こうして書籍になっているものを引用できるのはありがたい。それが書籍化される意義だが、参考文献リストくらいは欲しかった。

失敗のデザイニング:アングリーバードの成功から学ぶ。

とある事情で今、スマホ向けのアプリをかなりやっているわけだが、いわゆる「カジュアル革命」(Juulの言葉)以降のゲームデザインにとって何が重要か、クソみたいなアプリを100はプレイしてきたのでちょっとわかってきた。もちろん一つのゲームデザインの方向だけが重要だと言うわけではなく、いかに広いターゲットにゲームをプレイしてもらうかに関して日本のゲームデザインが忘れがちであることを指摘しておく。
今回の事例はアングリーバード。さすがに名前くらいは知っているだろうが、2010年でもっとも成功したゲームと言われている。クロームで無料で遊べるので、知らない人ややったことない人はひとつやってみてほしい。
http://chrome.angrybirds.com/
やった方にはこう質問してみたい。「これ簡単なゲーム?難しくない?」と。
私自身ももちろんやったことあるんだが、正直難しいと思う。もちろん、最初の方のステージはチュートリアル的に作ってあるから簡単なのだが、途中で必ず詰まるというか、「オイ、どうやったらクリアできるんだよ」的な状況に陥る。もちろん、ゲームバランスはかなりうまく調整されているため、一つのレベルで30分も悩むことは稀だが、30回はやり直しすることは普通なのだ。
さて問題はこうだ。「どちらかといえばヌルゲーというより、ムズゲーのアングリーバードがなんでこんなにヒットしたのか?」もちろんいろんな理由はあるだろう。言語依存しないシンプルなルール、キャラクター性やボリュームの多さなど。でも本質的なことはおそらくそういった問題ではない。これほど手間というかぶっちゃけ全部クリアするのに時間がかかり、完全に現代人の生産性を削いでいるゲームには何か秘密があるはずだ。それが今回のタイトル「失敗のデザイニング」だ。
ゲームには当然、ルールと目的があり、ある目的を達成することによって我々はゲームに楽しみを覚える。もちろん思ったとおりに目的を達成できないことは多く、そのようないわゆる焦らしもゲームの重要な楽しみだ(というかやすやすと目的を達成できすぎると楽しみを感じない。ルドロジーでいうところのチャンクとかいうやつが必要なのだ)。そしてこの焦らしの一つのあり方として、あるゲームのプレイに失敗した状況をいかに演出するかということが、この「失敗のデザイニング」なのである。
思うに、アングリーバードは純粋にステージをクリアすることだけを目標にすると、ひたすら地味なゲームである。やることは変な顔のトリをブタに投げつけるだけで、何度のも試行錯誤によってクリアにいたる。(まあトリの種類の使い分けっていう要素があるにせよ、これがトライアンドエラーによって攻略するものにはかわりはない。)私も何十ステージかやってみて「ああ不毛だな(だって同じことの繰り返しだし、これ上手くなるとかそういう要素は薄い。というか上手くなっても嬉しくねえっ)」とは思いながらも、これほど単純なゲームをここまで続けさせられるとは想定していなかった。そこでなんでこんな「不毛な」ゲームに人はハマるのだろうと、考えた結果、これはクリアする楽しみのためにゲームがデザインされているというよりも、失敗する楽しみのためにゲームがデザインされているのだろうと結論したのである。
アングリーバードは物理エンジンを採用している。そのため、ある一つのプレイが及ぼす状況が非常に多彩なわけである。だがこれ自体は、現在のカジュアルなゲームでありがちな「単純なインプットにリッチなレスポンス」という発想であって、とりたてて特別なことはない。しかしアングリーバードが特別なのは、目標の達成に対してリッチなレスポンスを行うというよりも、失敗も含めた状況、というか普通にやっていてたら失敗のほうが圧倒的に多いその状況に対して、物理エンジンが結果として巧みな演出を行っていると解釈できるのである。たぶんどちらかといえば、これは狙って作られたというよりも、物理エンジンというゲームシステムのユニットの本質が偶発的に生み出した面白さなのであろうが、アングリーバードはあるレベルで詰まったとしても、クリアができない状況にいらいらしない。というか、クリアできなくても、なんとなく面白いし、「あっミスった!」と思っても「えっ!?」という感じに偶発的にクリアしてしまうことも多いのである。


この失敗したときにどうなるのかという観点はゲームデザイン、特にカジュアルなゲームにとって非常に重要だと思うのだが、日本の伝統的なビデオゲームはこの点をあまり考えてこなかったように思えるのだ。例えば、古典的なSTGだと自機がやられると、1ミスになって復帰するだけで、ミスしたことによる演出はあっても爆発とかそのくらい。さらに全機ミスった場合はなんとなくムカつくBGM(笑)と「GAME OVER」なる文字が見えるだけで、際立った演出がないのが普通である。これはアクションやRPGでもだいたい一緒で、ミス時の復帰ポイントで難易度調整したりすることはあっても、ミスそのものを楽しむ要素として見せてくれるゲームって少なかったように思える。
一方、クリア時に関しては壮大なエンドロールやエンディングを作ることでプレイヤーに餌をばらまいてきた感があった。だから、多くのプレイヤーはクリアすることを目標にやっていて、ミスはなるべくさけるもの、できればないものだとみなしがちだ。一方、アングリーバードに関して、クリアすることが最終的な楽しみになっている人はそんなにいないのではないだろうか?だいたいが半端ないボリュームであるわけだし、たとえクリアしてもロビオ社がどんどんステージを開発してきやがる(笑)。熱心なファンはその全てをクリアしているんだろうけど、多くのプレイヤーはたいていどこかの段階で飽きるわけだ。でも全ステージをクリアする前に飽きたとしても、RPGなどにありがちな残尿感(?)は希薄で、別にどうったことない。というか、こんなもの全クリするほうがおかしいわいというようなデザインが最初から仕込まれているわけである。


ところでこの「失敗のデザイニング」については、アングリーバードをプレイするだけで気づいたわけではない。もう一つのきっかけがあったのである。それは有名なギャングスタゲームGTAiPhoneアプリ版『Grand Theft Auto: Chinatown Wars』である。

GTAの革新性として言われることはその自由度の高さであったのであるが、それがどういう意味でゲームとしての楽しさを作っているのかに謎だったのである。というのも、ゲームにおける自由度の高さって逆に目標の希薄さにつながるため、いいところばっかりではないはずだから。もちろん、iPhone版のGTAがオリジナルのGTAの楽しさをどの程度、反映させているかは分からないが、コアの部分は一緒だろうと推測すると、その楽しさは何かを達成するというよりも、まさにギャングになるというロールプレイ、どちらかといえばごっこ遊び、それもかなりリッチでクールなごっこ遊びにあるのだという結論に至った。
というのも、いわゆるクリアを目標とするゲームとしてはiPhoneGTAはつまらないというか、単調。基本的にはなんか頭がイカれているボスに酷い命令を指示されて、人殺したり、車ぶっ壊したりするだけ。なんだかやっててトホホ感が強い。(だたこのめんどくささは村上春樹的な「やれやれ」に通じる、ハードボイルドな俺がクソなミッションにつきあってやってる感をうまく出しているわけだ。)それでもGTAがリアルなごっこ遊びとして通用するのは、その一つ一つの作り込みの細かさであり、それはカーステレオで選局を行ったり、セーブからコンフィグに至るまで「ゲーム内のPDA」を使って操作するという徹底的な箱庭感である。
そして失敗のデザイニングである。GTAは基本的にはミッションをクリアすることで話が展開していくが、あるミッションに失敗するケースは複数ある。ポリ公につかまってブタ箱に入れられるか、事故なんかにあって病院送りにされるかである。しかしどういう失敗のケースでも、単なる「ゲームオーバー」は存在しない。常に「ゲーム内世界」の失敗としてそれが演出されているのだ。このことには驚いたのである。


思うに、日本の古典的なゲームはプレイヤーとゲーム側の勝負に重きを置いているため、あるミスや失敗がゲーム内でどのようなものであるかに自覚的ではなかった。STG、アクションでは端的にゲームオーバーやなんらかのペナルティが課されるぐらいであり、RPGも似たり寄ったり。ドラクエでもよくわからんプロセスによって主人公が復活させられ、王様にお叱りをうけるくらいだ。本当はもっとゲーム内で説明してもいいのかもしれない。なぜSTGの自機は数機ストックがあるのか、主人公はなぜ死んでも生き返るのか。そういうゲームジャンルごとのルールを暗黙の了解として慣習法化してきたのが日本のゲームであるならば、少なくともGTAなどの海外ゲームは一から「セーブとはプレイヤーキャラクターがコンピューターにログインデータを残すことだ」というように考えている感を強く感じる。そして失敗のデザイニングにおいても、単なるゲームオーバー以上の演出がなされている。
このようにアングリーバードとGTAという極端に違ったゲームでも、クリアを目標とする以外のところに対するデザイニングに明確なセンスを感じるものは、一部のコアゲーマー以外にも比較的にアピールしやすいように思える。カジュアルゲームという言葉で何が意味されているのかは、たいてい曖昧であるが、ゲームに慣れていない多くの人にやってもらうためにはこういった失敗のデザインに費やすことが必要だと思う。

===追記(2013/03/10)===
いくつかの表現を改めた。理由は現在から見て、私とゲームの関わりが変化していることによる。正直言えば、今から見るといろいろと浅はかさが目立って恥ずかしかった部分もある。逆に言えば人は成長するものだ。ただエントリの内容は特に変わっておらず、この時に考えたことは今でもそれなりに意味を持つ。ただ今の自分から見ると、表現として気に食わない部分があったのだ。

サイバーバロックの系譜2:弐瓶勉とサイバーバロック?

前回のエントリ(http://d.hatena.ne.jp/shinimai/20110609/p1)が好評だったら続き書くとか行ってたけど、実際には自分の好き勝手やってるだけで、サイバーバロックという空想概念を駆使して自分の好きなものを他人に勧める俺ワールドを展開したいだけです。ともあれ、期待してお読みいただいた方々にも納得行けるようなお話をデッチあげられればと思い、今回は弐瓶勉について。
正直、私は弐瓶ファンとしてはかなりのニワカでして、そもそもあんまりマンガを読まないせいもあるんですが、ふとしたきっかけ(実はそのきっかけこそ、このエントリのシリーズの要だったりするんですが、それはまだ隠しときます(笑)に弐瓶作品を読み、すぐに虜になりました。
そうこう読む内に弐瓶勉作品がどういう系譜にあるのかも当然考えて、まあ作品から明白に取れる意匠はたくさんあれど(例えばBLAME!のセーフガードがクリス・カニンガムのロボットデザインだとか。でもそもそもああいうアンドロイド的デザインの元ってなんでしょうね。フリッツ・ラングメトロポリスあたりだと思うんですが。あとこの手のデザインはアニメだとErgo Proxyがモロやってますよね。あれはむしろ弐瓶勉デザインだわって。)自分的には何に位置づけるかを考えてきました。
まあそもそも今はシドニアの騎士で、何故か王道(萌え)ロボット漫画をやっているわけで、弐瓶作品を一つの軸でくくるのが暴挙である(BLAME!学園もあるし…)のを承知しつつ考えていっても、実のところBLAME!にしてもあれをサイバーパンクっていうのは無理があるのではないだろうかって思います。
BLAME!(2) (アフタヌーンKC)
弐瓶 勉
4063141942

デビュー作(?)のBLAME! 拳銃いや違った重力子放射線射出装置(笑)がフィーチャー

シドニアの騎士(3) (アフタヌーンKC)
弐瓶 勉
4063106802

シドニアの騎士!ついに大々的に萌えに走った(笑)
もちろん、「日本的な文脈」におけるサイバーパンクの要素はBLAME!にはあると思います。なによりも主人公が無口で孤独で、一人で拳銃をぶっ放すあたりが、まさにブレードランナーというか、ブレードランナー以外のなにものでもない。でもサイバーパンクにとっての拳銃ってたまたまブレードランナーがそうであっただけなような気がして本質的な要素だとは思えない。もちろんハードボイルドの要素はもともとのサイバーパンクにもあるとは思いますが、なんでデッカードはそんな貧素な武器で大層な任務を遂行せなならんのか(笑)とつっこみいれたくなります。
BLAME!なんですが、この話、サイバーパンク的にというかそもそも電脳世界を描いた物語のなかでもかなり異質です。ってのはBLAME!におけるサイバースペースにあたるネットスフィアは、そもそも誰もアクセスできない状態で、実際に物語の描写においても、描かれるのは荒廃した遠未来の現実世界、あのメガストラクチャーばかりだから。つまり、BLAME!とはどちらかといえば反転したサイバーパンクというか、サイバースペースに入れないけどよくわからん現実世界におるっていう話なのであり、その現実世界がすべて機械で作られているという逆説的設定なのだ。そしてこの設定でこそ「大地って何だ。」という霧亥のセリフが生きて、シボが垣間見るネットスフィアの映像がすごく感動的なんだけど、あれってつまりウィンドウズOSの背景だよねっていうドライな笑いをさそっている。
なんか脇道それたけど、つまり言いたいことは一番サイバーパンクに近そう(っていうかそう言われるときもある)BLAME!にあってもサイバーパンクとは違うなにか成分の方が大きいってことが言いたかったわけです。そうしてサイバーパンクにこだわらず弐瓶作品を考えると実際には、なんだかわからんけどカッコイイ豪華なガジェット、ヒロイックな主人公と絶対王政的権力、個人の内面を描く以上に全体のシステムを描く、そういった意味ではサイバーバロックとして読めてこないか?っとなるのです。
シドニアの騎士にしても、あれは確かに弐瓶勉にとってはかなり大胆な作風の転換なんだと思うけど、サイバーバロックとして見た場合(まあどこがサイバーなんだよwwっていうツッコミは置いといて)、ワイドスクリーン・バロック的なヒロイックストーリーってことに収まる。だいたいのところ弐瓶勉のキャラクターはもともとのサイバーパンク的な一人称的語りや個人の内面の探求というよりも、もっと様式化された見た目のカッコ良さ成分が強めであったわけだから、それがちょっとコミカルな要素に触れてシドニアの騎士の主人公の谷風長道になってもおかしくもない。そもそもがBLAME!の主人公の霧亥だってどこか可笑しさを誘うキャラであったわけであるから。
と、そういう表層的な意味での類似性を置いといても、やはり弐瓶勉作品の一貫したモチーフは巨大建築であることはまちがいない。そしてその意味においてもやはりこれは個人というミクロの内部の広大な領域を描く傾向にあるサイバーパンクというよりも、絶対的な巨大な建築(権力)の中で翻弄させられるミクロなヒーローというサイバーバロック的要素(というのをまあ俺が言ってるだけなんだけど)に溢れていないだろうか?
ちなみに以前、このサイバーバロックの話をしたときid:inumashさんに「こういう話をするなら『CASSHERN』(というか紀里谷和明)を外すことはできないと思うんだ」という指摘を受けて、映画版CASSHERNのカッコイイシーンだけネットでみたんだけど(全部見なくてすみませぬ…)、あったしかにこれは自分が思っている意味でのサイバーバロックだと感じた。確かに紀里谷のPVとかSF的要素が異常にど派手なビジュアルと混合していて、まああくまでも表面的な意味でサイバーバロック的要素に満ちていると思うし、前回触れたアニメ『岩窟王』にも近いと感じた。
それでまたこれが運命のヘンテコな出会いみたいんだけど、弐瓶勉バイオメガをちょっと読んで、あれこれキャシャーンじゃないって思ったら、非常に腑に落ちたわけです。まあそもそもオリジナルのアニメのキャシャーンを見てないからちょっとよくわからないんだけど、たぶんオリジナルのキャシャーンの設定にもサイバーバロックの要素ってのがあって、それが弐瓶勉バイオメガに影響を与え、オリジナルのキャシャーンを映画化するに当たって紀里谷が弐瓶勉バイオメガをモチーフとした当たりの流れがかなりありそう(宇多田ヒカルバイオメガの帯を書いているんだけど、どうも当時の夫に勧められて読んだ可能性があるらしいから)。
まあ本当にザレゴトなんで別に落ちとかないんだけど、俺のなかではこれからは「弐瓶勉はサイバーバロック!」ということになりました(笑)。
BIOMEGA 6 (ヤングジャンプコミックス)
弐瓶 勉
4088776224

圧倒的な巨大さがまさにバロック
CASSHERN [DVD]
紀里谷和明
B0001A7D0O

今見ると思った以上にデザインが弐瓶的だった件ww

とうのむかしに読んだ

いろいろと忙しくてブログの更新が滞るが、一応読書メモくらいつけておきたいので。まあそもそも文章書くような仕事に付くものであるから、ブログが滞るのは本業が充実しているってことです。でも金無い・・・
ルールズ・オブ・プレイ(上) ゲームデザインの基礎
ケイティ・サレン エリック・ジマーマン 山本 貴光
4797334053

かなり前に読んだけど、これは良い本だと思ったので、ぜひ皆さんに読んでいただきたい。ゲームとは関係なくモノづくりやデザイン一般に役立つものだと思う。
ゲームに関しては最近このようなものhttps://sites.google.com/site/akashinimai/workshops/irohaなどをしたり(http://togetter.com/li/141293も参照)ただのプレイヤーとしてではなく、興味持っているんだけど、正直今のところはまだただのプレイヤーとしていたい(笑)。ゲームについて考えるより、ただもうひたすらゲームうまくなりたいって思っていて、それは音楽研究している自分がそれなりの音楽聴取の体験を基礎としているならば、もしもゲームを研究するならば、自分のリテラシーがまだまだ足りないって思うからだ。
この本の内容は分厚すぎるから紹介するには手にあまるけど、著者が最初のほうに述べるように、これはやっぱりゲーム美学の本であって、実際に美学と似たような問題があって興味深かった。特にどんなゲームが良いゲームかはやってみるまで分からないってのは、芸術作品にも当てはまることであり、美的な価値や楽しみの価値ってのは根本的に実際にやってみたり、鑑賞したりしないと根拠付けられないような振る舞いをするようだ。
まだ上巻なので下巻出て読んだらさらに書き加えようと思うのでこれくらいにしておく。豆知識としてサドナウがゲーム小説を書いていたという事実はEM系の人たちにも知られていなくて、ちょっとおもしろかった。というか、自分が鍵盤を駆ける手のゲーム版を書きたいと思っていたけど、サドナウやってたんやwwみたいな。。