かつてドラッグを通してバロウズが新たな文学を始めたように、ビデオゲームにアディクトすることでも文学は始まる。

Twitterでつぶやいてたっぽいことをタイトルに掲げたが、まあ実際にそうだと思う。きっかけは大塚ギチ氏の以下の小説に深く感銘を受けたこと。
THE END OF ARCADIA
大塚ギチ UNDERSELL ltd.
4990690508

TOKYOHEAD RE:MASTERED
大塚ギチ UNDERSELL ltd.
4990690516

もともと海猫沢めろんさんとゲームの話をしていて、「死に舞くん、これ読むべきだよ」って貸していただいた。不勉強ながら大塚ギチ氏のことは何にも知らず、ただシューター(2Dシューティングゲーマー)の小説と対戦格闘ゲーマーのルポルタージュという基本情報だけで読んでみたが、これが素晴らしい傑作だった。ほとんど自費出版のような形の本ですが、少なくともシューターや格闘ゲーマーはすぐ買って読むべき!俺も改めて買い直します。

まず『THE END OF ARCADIA』から読んだのですが、冒頭の文章からひきこまれました。長いですが、素晴らしく感じられたので引用する。

文字どおり全身全霊を懸けた、たった一時間程度の攻防。息継ぎせず泳ぎ続けるかのように絶え間なく迫る攻撃をかわしながら壊せるものすべてを破壊し、得点を跳ね上げていくただそれだけの行為。すでに糖分を消費しきった脳は疲労した肉体から残った力を搾り取る。代替えのエネルギーを脳にぶちこみ、極限まで高めた集中力をさらに持続させようと試みる。時折湧き上がる高揚感を修行僧のように自分が内側に抑えこむ。精密機械のような冷静さでひたすらプログラムに挑み続ける。指先が知覚で認識するよりも速く動いているかのように感じられる。操っているはずの自分が操られているように錯覚する。まだやれるのかと老いぼれた身体で古びた筐体と対峙しながら互いへの問いを繰り返す。
(11-12)

何がすごいってこれがゲームの話なんですよ。それも横スクロールの伝説的なシューティング『ダライアス』。まあ普通の人にはどんなゲームか、何がすごいのかわからないかもしれないが、シューターと呼ばれるシューティングゲーム好きにとってはこの文章は非常にしっくりくる。シューティングゲームの本質をまさに的確に描写していると感じられるのだ。
最後に出てくる「操っているはずの自分が操られているように錯覚する」という件は、個人的にもシューティングゲームの魅力として、いつも強調してきたこと。パターン性が強いシューティング、もしくは攻略の過程上、パターン性を強くしたゲームをプレイしていると、プレイヤーは自らがプログラムと対峙する1つの機械になったように感じる。その境地においてシューティングゲームはその音楽を背景としながらプレイヤーと一体となり、それはある種のダンスの楽しさに至るのだ。
という風に、この冒頭部分(実はこの文章は後半でももう一度登場する)だけでもすごくひきこまれたのですが、友人の死をきっかけとして、40代になった仲間たちともう一度、ゲームを攻略してハイスコアを勝ち取るというストーリー自体も素晴らしい出来だと思う。このストーリーやプロットの部分は、「何かに打ち込んで達成する」という人間の普遍的な欲求に応えているため、ゲームをやらない人でも素直に面白い小説として読める。むしろ、打ち込む対象が「ゲーム」だからこそ、この欲求が非常にピュアで純粋無垢なものとして現れている。実際のところ私は3回くらいこの小説を読みながら涙を流したよ!WEB配信を含めて去年リリースされたそうだが、普通に現代の日本社会においてリアリティのある小説に仕上がっている。

一方、『TOKYOHEAD RE:MASTERED』は3D格闘ゲームの『バーチャファイター』が熱狂的に盛り上がっていた93年から95年のルポルタージュ。当時既に出版されていたものを改稿したリマスターバージョンになっている。

これも冒頭からヤラれました(笑)。寺山修司の有名なエッセイの引用から始まり、文体のテンションが終始異様に高い!加野瀬氏がギチ氏に対して「彼の強みは、80年代を恥ずかしいなんて思わないところだ」と評する理由が、このルポルタージュから伝わるのだが、単に80年代だというわけではなく、60年代末から続くカウンターカルチャーの一部としてゲーム文化を捉えているのだなぁと実感できた。その認識の是非はどうあれ、この文体の異様な暑さは当時の雰囲気を伝えることが大切なルポルタージュとして評価できると思った。
正直なところ、自分は格闘ゲームに関しては2Dのものをそこそこやっている程度の人間だ。しかし、このルポルタージュに出てくる人たちの感覚の一部を共有しつつ、一部は時代の違いを感じることができ、ゲーマーとしての相対化ができるのが面白いところ。言い方が悪いが、やはり90年代前半はまだまだ80年代的な雰囲気が強く、アーケードに集うゲーマーたちはどちらかというとヤンキー気質だったのだなーと感じる。
でも今でもアーケードは中学生から水商売のお兄さんがフラっとやってきて対戦を始めるような可能性を秘した場所だ。そして、そこでのゲーム文化はソフトを所有したり、消費したりするということとは異なる価値観で作られていることを改めて確認した。最近、引越ししてあまりゲームができない自分も久しぶりにアーケードに足を運ぶと、ゲームに対する独特な感覚が蘇ってきた。(それについてはこちらでコラムなどを書いた。)

ともあれ、冒頭に戻ると「ゲームについて語る」ということは本当に真面目に検討してもいい事柄だと思った。ゲームについて語るのは、現実のゲームを通して社会を語ると共に、ゲームという虚構について語ることもできる。『THE END OF ARCADIA』はフィクションだが、現実に存在する『ダライアス』に関する攻略方法についての記述があることで小説としてのリアリティが非常に高く感じる。他方、『TOKYOHEAD RE:MASTERED』はノンフィクションのルポルタージュなのだが、ゲームに関して異常に熱くなっている人々を描くのはやはり浮世離れした魅力を感じる。異なる視点からゲームを語る二作品はゲーマーならまずもって必読だ。(個人的には最近、
ソーシャルゲームよりゲーセンのほうが「高コスト」問題」というエントリを書いたはてなダイアラーのベテランシューターのシロクマ先生などにぜひとも読んでほしい。)