失敗のデザイニング:アングリーバードの成功から学ぶ。

とある事情で今、スマホ向けのアプリをかなりやっているわけだが、いわゆる「カジュアル革命」(Juulの言葉)以降のゲームデザインにとって何が重要か、クソみたいなアプリを100はプレイしてきたのでちょっとわかってきた。もちろん一つのゲームデザインの方向だけが重要だと言うわけではなく、いかに広いターゲットにゲームをプレイしてもらうかに関して日本のゲームデザインが忘れがちであることを指摘しておく。
今回の事例はアングリーバード。さすがに名前くらいは知っているだろうが、2010年でもっとも成功したゲームと言われている。クロームで無料で遊べるので、知らない人ややったことない人はひとつやってみてほしい。
http://chrome.angrybirds.com/
やった方にはこう質問してみたい。「これ簡単なゲーム?難しくない?」と。
私自身ももちろんやったことあるんだが、正直難しいと思う。もちろん、最初の方のステージはチュートリアル的に作ってあるから簡単なのだが、途中で必ず詰まるというか、「オイ、どうやったらクリアできるんだよ」的な状況に陥る。もちろん、ゲームバランスはかなりうまく調整されているため、一つのレベルで30分も悩むことは稀だが、30回はやり直しすることは普通なのだ。
さて問題はこうだ。「どちらかといえばヌルゲーというより、ムズゲーのアングリーバードがなんでこんなにヒットしたのか?」もちろんいろんな理由はあるだろう。言語依存しないシンプルなルール、キャラクター性やボリュームの多さなど。でも本質的なことはおそらくそういった問題ではない。これほど手間というかぶっちゃけ全部クリアするのに時間がかかり、完全に現代人の生産性を削いでいるゲームには何か秘密があるはずだ。それが今回のタイトル「失敗のデザイニング」だ。
ゲームには当然、ルールと目的があり、ある目的を達成することによって我々はゲームに楽しみを覚える。もちろん思ったとおりに目的を達成できないことは多く、そのようないわゆる焦らしもゲームの重要な楽しみだ(というかやすやすと目的を達成できすぎると楽しみを感じない。ルドロジーでいうところのチャンクとかいうやつが必要なのだ)。そしてこの焦らしの一つのあり方として、あるゲームのプレイに失敗した状況をいかに演出するかということが、この「失敗のデザイニング」なのである。
思うに、アングリーバードは純粋にステージをクリアすることだけを目標にすると、ひたすら地味なゲームである。やることは変な顔のトリをブタに投げつけるだけで、何度のも試行錯誤によってクリアにいたる。(まあトリの種類の使い分けっていう要素があるにせよ、これがトライアンドエラーによって攻略するものにはかわりはない。)私も何十ステージかやってみて「ああ不毛だな(だって同じことの繰り返しだし、これ上手くなるとかそういう要素は薄い。というか上手くなっても嬉しくねえっ)」とは思いながらも、これほど単純なゲームをここまで続けさせられるとは想定していなかった。そこでなんでこんな「不毛な」ゲームに人はハマるのだろうと、考えた結果、これはクリアする楽しみのためにゲームがデザインされているというよりも、失敗する楽しみのためにゲームがデザインされているのだろうと結論したのである。
アングリーバードは物理エンジンを採用している。そのため、ある一つのプレイが及ぼす状況が非常に多彩なわけである。だがこれ自体は、現在のカジュアルなゲームでありがちな「単純なインプットにリッチなレスポンス」という発想であって、とりたてて特別なことはない。しかしアングリーバードが特別なのは、目標の達成に対してリッチなレスポンスを行うというよりも、失敗も含めた状況、というか普通にやっていてたら失敗のほうが圧倒的に多いその状況に対して、物理エンジンが結果として巧みな演出を行っていると解釈できるのである。たぶんどちらかといえば、これは狙って作られたというよりも、物理エンジンというゲームシステムのユニットの本質が偶発的に生み出した面白さなのであろうが、アングリーバードはあるレベルで詰まったとしても、クリアができない状況にいらいらしない。というか、クリアできなくても、なんとなく面白いし、「あっミスった!」と思っても「えっ!?」という感じに偶発的にクリアしてしまうことも多いのである。


この失敗したときにどうなるのかという観点はゲームデザイン、特にカジュアルなゲームにとって非常に重要だと思うのだが、日本の伝統的なビデオゲームはこの点をあまり考えてこなかったように思えるのだ。例えば、古典的なSTGだと自機がやられると、1ミスになって復帰するだけで、ミスしたことによる演出はあっても爆発とかそのくらい。さらに全機ミスった場合はなんとなくムカつくBGM(笑)と「GAME OVER」なる文字が見えるだけで、際立った演出がないのが普通である。これはアクションやRPGでもだいたい一緒で、ミス時の復帰ポイントで難易度調整したりすることはあっても、ミスそのものを楽しむ要素として見せてくれるゲームって少なかったように思える。
一方、クリア時に関しては壮大なエンドロールやエンディングを作ることでプレイヤーに餌をばらまいてきた感があった。だから、多くのプレイヤーはクリアすることを目標にやっていて、ミスはなるべくさけるもの、できればないものだとみなしがちだ。一方、アングリーバードに関して、クリアすることが最終的な楽しみになっている人はそんなにいないのではないだろうか?だいたいが半端ないボリュームであるわけだし、たとえクリアしてもロビオ社がどんどんステージを開発してきやがる(笑)。熱心なファンはその全てをクリアしているんだろうけど、多くのプレイヤーはたいていどこかの段階で飽きるわけだ。でも全ステージをクリアする前に飽きたとしても、RPGなどにありがちな残尿感(?)は希薄で、別にどうったことない。というか、こんなもの全クリするほうがおかしいわいというようなデザインが最初から仕込まれているわけである。


ところでこの「失敗のデザイニング」については、アングリーバードをプレイするだけで気づいたわけではない。もう一つのきっかけがあったのである。それは有名なギャングスタゲームGTAiPhoneアプリ版『Grand Theft Auto: Chinatown Wars』である。

GTAの革新性として言われることはその自由度の高さであったのであるが、それがどういう意味でゲームとしての楽しさを作っているのかに謎だったのである。というのも、ゲームにおける自由度の高さって逆に目標の希薄さにつながるため、いいところばっかりではないはずだから。もちろん、iPhone版のGTAがオリジナルのGTAの楽しさをどの程度、反映させているかは分からないが、コアの部分は一緒だろうと推測すると、その楽しさは何かを達成するというよりも、まさにギャングになるというロールプレイ、どちらかといえばごっこ遊び、それもかなりリッチでクールなごっこ遊びにあるのだという結論に至った。
というのも、いわゆるクリアを目標とするゲームとしてはiPhoneGTAはつまらないというか、単調。基本的にはなんか頭がイカれているボスに酷い命令を指示されて、人殺したり、車ぶっ壊したりするだけ。なんだかやっててトホホ感が強い。(だたこのめんどくささは村上春樹的な「やれやれ」に通じる、ハードボイルドな俺がクソなミッションにつきあってやってる感をうまく出しているわけだ。)それでもGTAがリアルなごっこ遊びとして通用するのは、その一つ一つの作り込みの細かさであり、それはカーステレオで選局を行ったり、セーブからコンフィグに至るまで「ゲーム内のPDA」を使って操作するという徹底的な箱庭感である。
そして失敗のデザイニングである。GTAは基本的にはミッションをクリアすることで話が展開していくが、あるミッションに失敗するケースは複数ある。ポリ公につかまってブタ箱に入れられるか、事故なんかにあって病院送りにされるかである。しかしどういう失敗のケースでも、単なる「ゲームオーバー」は存在しない。常に「ゲーム内世界」の失敗としてそれが演出されているのだ。このことには驚いたのである。


思うに、日本の古典的なゲームはプレイヤーとゲーム側の勝負に重きを置いているため、あるミスや失敗がゲーム内でどのようなものであるかに自覚的ではなかった。STG、アクションでは端的にゲームオーバーやなんらかのペナルティが課されるぐらいであり、RPGも似たり寄ったり。ドラクエでもよくわからんプロセスによって主人公が復活させられ、王様にお叱りをうけるくらいだ。本当はもっとゲーム内で説明してもいいのかもしれない。なぜSTGの自機は数機ストックがあるのか、主人公はなぜ死んでも生き返るのか。そういうゲームジャンルごとのルールを暗黙の了解として慣習法化してきたのが日本のゲームであるならば、少なくともGTAなどの海外ゲームは一から「セーブとはプレイヤーキャラクターがコンピューターにログインデータを残すことだ」というように考えている感を強く感じる。そして失敗のデザイニングにおいても、単なるゲームオーバー以上の演出がなされている。
このようにアングリーバードとGTAという極端に違ったゲームでも、クリアを目標とする以外のところに対するデザイニングに明確なセンスを感じるものは、一部のコアゲーマー以外にも比較的にアピールしやすいように思える。カジュアルゲームという言葉で何が意味されているのかは、たいてい曖昧であるが、ゲームに慣れていない多くの人にやってもらうためにはこういった失敗のデザインに費やすことが必要だと思う。

===追記(2013/03/10)===
いくつかの表現を改めた。理由は現在から見て、私とゲームの関わりが変化していることによる。正直言えば、今から見るといろいろと浅はかさが目立って恥ずかしかった部分もある。逆に言えば人は成長するものだ。ただエントリの内容は特に変わっておらず、この時に考えたことは今でもそれなりに意味を持つ。ただ今の自分から見ると、表現として気に食わない部分があったのだ。