読んだ

献本いただきましたが、本当に素晴らしい本でした。
アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで (講談社選書メチエ)
大和田 俊之
4062584972

大和田さんとはポピュラー音楽学会を通じてお付き合いいただいたり、私の卒論や修論も読んでいただいたり、いろいろお世話になっていますが、この著作はそういう恩義とは関係なく絶賛すべき内容であり、日本の全ポピュラー音楽研究者は必読書なのは当然、アメリカ研究、文化史、ブラックスタディーズに興味を持っている方も是非とも読んでいただきたい。アメリカ研究などに詳しくないのでわからないのですが、こういった類のアメリ音楽史の著作って英米圏にすでにあるのだろうか。ないとしたら、翻訳して逆輸入されてもいいくらい濃い内容だと思った。
非常に内容が濃く、情報量は多いことも特筆すべき点ですが、なによりも本書の歴史記述は「偽装」というキーターム、特にアメリカ・ポピュラー音楽の源流であるミンストレル・ショーにおける人種や階級、ジェンダーの越境という観点によって貫かれており、客観性を重視する以上に著者の歴史へのパースペクティブが色濃く反映している点も面白い。そういった意味ではポスト・カルチュラル・スタディーズ的内容と言っていいかもしれない。

ミンストレル・ショウにみられるこうした〈擬装〉の重層性こそが、その後のアメリカ音楽文化におけるアイデンティティのあり方を決定づける点に留意しよう。それは、しばしば1960年代のカウンター・カルチャーの音楽を語る際に言及されるアイデンティティ――多文化主義にもとづいて展開されるアイデンティティ・ポリティクス――とは異なる、幾重にも偽装され、仮構された虚構の主体である。アメリカの音楽文化にみられるアイデンティティの様態をこのように理解することではじめてエルヴィス・プレスリーエミネムの存在をアメリ音楽史に正統に位置づけることができるのだ。
(19)

特に勉強になったのはやはりロックンロール以前のアメリ音楽史について。今まで漠然とティンパン・アレーのシートミュージックからスウィングジャズ、モダンジャズの発展、ブルースとリズム・アンド・ブルース、白人のフォーク・ミュージックの伝統からカントリー、そしてようやくロックンロールという歴史観を描いていたけど、この本を読むことによってそれらの系譜、さらに系譜の創造過程もはっきり理解できた。感銘を受けた部分は多岐にわたるが、中でも興味深かった部分を引用しよう。

ソ連との間に冷戦が始まり、国内の共産主義者に対する魔女狩りが吹き荒れるなか、ジョセフ・マッカーシー上院議員は「フォーク」という用語を共産主義と結びつけて攻撃した。彼は「フォーク・ミュージック」を演奏するウィーヴァーズを共産主義のシンパと断定し、メンバーのピート・シーガーを非米活動委員会に召喚して過去の共産主義敵な活動をすべて問いただしたのである。同じ時期にメディアは一斉に「フォーク」という用語の使用を控え、その代わりに「カントリー」という言葉が流通するようになった。(・・・)ここで重要なのは、同じカテゴリーの音楽を指していたはずの「フォーク・ミュージック」と「カントリー・ミュージック」がこれを機に政治的に離反する点である。
(62-63)

カントリーというジャンルが保守的な白人文化、俗にいう「レッドネック」という言葉に代表されるイメージを持つこと、フォークが左翼的なイメージを持つことは、洋楽好きにとってはある程度、当たり前だけど、その由来が赤狩りにあったことは知らなかった。ジャンルに関するイメージや用語が当時の社会状況によって構築された極めて特徴的な事例だと思う。そしてこのカントリーの保守性を理解することによって、アンクル・テュペロ以降のオルタナ・カントリーの革新性がより良く理解できる。


さてここまで手放しで絶賛ばかりしてきたが、あえて不満を少しあげるとするならば、後半のヒップホップやパンクについての記述が極めて少ない点である。まあそういう新しめのポピュラー音楽についての本は他にもあるから別にいいといえばいいのだが、パンクやメタルなどのロックのサブジャンルがアメリカ全体でローカルに根付いたことは少しは言及されても良いと思った。パンクの扱いもNYの先鋭的なアートシーンに含まれるものとして描かれているが、実際には50年代からのガレージロックの伝統から80年代のインディーロック、90年代のグランジオルタナティヴというアメリカ独特な系譜がほとんど触れられてないのがちょっと不満。最終章のヒスパニック・インヴェンションでチカーノ・ロックの見直しとかが記述されているのならば、ガレージロックやパンクのスタンダード曲になったルイルイのラテン性とか、もともとヒスパニック系だったがそれこそ「偽装」して当時極めて白人的なジャンルであったemoバンドをやっていたAt the Drive inがMars Voltaで一気にラテン性を開花させたことなど触れて欲しいと。まあこれは俺の完全な趣味なんですけど。
あともう一つ難点というか納得いかないのは、アメリカのポピュラー音楽における様々な現象をフレデリック・ジェイムソンの「空間化」(spatialization)や「深さのなさ」(depthlessness)の概念に結びつける議論。これもある程度、自分の趣味なんだけど、モダンとポストモダンに断絶を描く議論ってのは基本的にアジテーションにはなるとしても、事実的問題としては多分に疑わしい議論が多いので、そのような記述は現代思想好きの興味をそそる一方で、歴史記述の恣意性を強く印象づけられる。もちろん客観性ということにこだわるべきというわけではなく、著者のオリジナルな観点である「擬装」というキータームだけで十分に魅力的だと思ったということだ。
とはいえ、この本はやはり素晴らしい。本当に勉強になった。
ってことで最後にブラックフラッグのルイルイでも。ハードコアバンドにもやはりカリブのリズムが入っている。