『論理学をつくる』戸田山和久-第一章読書メモ

論理学をつくる
戸田山 和久
4815803900

タイトルはWhat is THIS Thing called Logic?

1.1論理とは何か?論理学は何をするのか

最初だから「論理学とは何なのか?」というお話。ただし戸田山によるとこのような問いはセンスが無い。「論理学は論理についての学問だ」っていう万能かつ意味の無い答えがすぐにできるから。ではどうするか?
それは、論理とは何かではなく、典型的に論理的な現象から始めることである。まあ要するに日常的に使う論理とか論理的という言葉の使用とりあえず分析しようではないかとことだが、例文とかは割愛。
ともかく論理というのはどうやら論証agumentとか推論inferenceに関することであり、それは前提premiseから結論conclusionを導くことのようだ。以後とりあえず論証=推論として扱う。
論証には正しい論証と正しくない論証があるようだ。例えば矛盾inconsistentという現象があったり、逆に整合的consistentということがある。これに厳密に白黒つけるのが論理学である。というか、論理学には論証が正しいか否かについて白黒をつける程度の能力しかないと言える。
ところで典型的に論理的な現象を分析すると、そこで使われる特定の人物や名前は関係ないことが分かる。つまり論理は個別の事柄とは無縁の形式的なものである。例文を割愛。要するにソクラテスとかそういうのはxでも○とかに置き換えたりしても論理には変わりない。また論理において形式的真理formal truthというのが重要であり、これは「xはyであるか無いかのいづれか」というようなxとかyとかに何が入ろうが、形式的に真理であることである。
以上から論理学が扱う重要な概念は、1論理的帰結、論証の妥当性、2矛盾、3形式的真理の三種類である。でもこの三つは本とは同じところに通じる。
問うのであると答える。ここらへんは進化論とか勉強していると関わるあたりで、コスミデスとトゥービーが主張した「裏切り者検知」の心理的推論とその他の推論に対する人間の得手、不得手の問題につながって面白いけど、めんどくさいから俺は説明してやんないよ。

以上、ちょー簡単にまとめると「論理学の目標は論証の正しさはどういうことかを明確にすること」

1.2論証の正しさをどこに求めたらよいか

ここから少し専門的なことに入る。ちょっと論理学を知っていれば、用語の確認するくらいだけど。
しかし、素人的には一番分かりにくい最重要項目がある。それは論証の正しさと命題の真偽は別ということ。命題ってのはめんどいから詳しく考えるな。とりあえず「xはyである」みたいな普通の文、平叙文と思えばよい。
用語的には命題や文に関する正しさを、真偽true/false、論証についての正しさを妥当非妥当valid/invalidと区別することを覚えよう。具体的にじゃあ命題の真偽と論証の妥当性ってのはどう違うのかを、門外漢に説明するのは難しい。例文書くのもめんどいし、割愛するね。
さらに論証が「成功している」succeedという用語も導入される。それは論証が妥当かつ前提(となる命題)のすべてが真であるときだ。そして論証が成功しているとき、その論証は結論の根拠となりその結論を信用できる。逆にいうと、論証が妥当であっても、前提が偽であるならば、その論証は成功していなくて、その結論は信用できない。
また論証が非妥当であっても、前提が偽であっても、結論(となる命題)自体は真であるときがある。これは単にまぐれあたりというやつである。これくらいははてなっぽいオリジナル具体例をあげよう。

前提

結論

この前提と結論は関係ないし、論証は非妥当である。ただし、結論は真である(もちろん誰にでも真と分かるわけじゃないよ!分かった君はアレだってことだよw)。ときたま、私はこのような論証をされて「あなたが言っていることは論理的ではない」とか「それは論理的に間違っている」というと、相手が怒り出すことがある。どうも相手には結論が真であることを否定しているように思われるようだ。でも、論証の妥当・非妥当はその結論の真偽から導出されないから、私は間違っていない。ただし、言い方が悪かったと今では反省している。今度からそのような時は「あなたの論証は非妥当である」と正しい言葉使いをしよう、そして論理的という言葉を正しく使いたい人にもそのようにお勧めする。しかし、そうするとコミュニケーションがうまくなったりするとか、口げんかにならないと言うわけではないのであしからず。(むしろ非妥当とは何かを説明しなければならないし、結論と関係ないことには関心がない相手を余計怒らすことになるかもしれない。)

さてちょっと説明が細かくなったが、まとめると論理学が扱うのは論証が妥当性であり、前提の真偽や論証のsucceedではない。つまり、論理学は「平野綾茅原実里は共演したことがある」か否かには興味はない。それは声優オタに聞け。

ここで戸田山先生から練習問題が出される。

練習問題1
では、妥当な論証で前提はすべて偽、結論は真な命題になっているものがあるだろうか。あるならその実例を挙げてみよう。

まあ論理学を少しかじっていればたいした問題ではない。そのような論証はある。実例はまたはてなっぽいのを作ってやるぜ。

前提

  • 泉こなたは巨乳である
  • すべての巨乳はオタクである

結論

言っとくが私がこのような事をいつも考えているわけでは断じてない!君たちに分かりやすい例文を作ってあげているのだぞ!各自、このような具体例を作るように。(ちなみに量化子とかの話はまだなので細かい突っ込みは無しにしてほしいが、「巨乳のなかにもオタクはいるぞ、オレとか」言う反論はこの論証に通用しないことは分かっておこう。虚構人物の属性とは何かとか、言い出せばキリがないほどの反論はあるだろうが。)

ここまで来てまた疑問を生じる人はいる。それは、「どうして論証の妥当性だけを探求するのが役に立つの?」というものだ。確かに我々にとって重要な多くのことは命題の真偽であることが多いし、議論や口論で争われるのはむしろそっちのほうだ(「あなたは浮気をしたんだよ!」「いや、オレはしていない!」)。ある意味でこの疑問は当然だが、論証の妥当性は人の説得に役立つ。具体例はめんどくさいから割愛。背理法なんかを思い出してくれればよい。
ただしこのことから分かる非常に大事なことは、妥当な論証において、前提がすべて真なのに結論が偽になるようなケースはありえない。つまり論証の妥当性というのは、真である前提から真である結論を導くための強力なツールであるわけだ。

さて上述したように論理とは形式的なものである。そして論証の妥当性は形式に関する事柄であり、内容(命題の真偽)に関する事柄ではない。戸田山先生が面白い例を作っているから引用しとく。

前提

  • Pファンク系のクールきわまる連中はすべて独創的なミクスチュア感覚を魅力としている
  • アーシーな音楽的力量をもつミュージシャンはすべて独創的なミクスチュア感覚を魅力としている

結論

  • Pファンク系のクールきわまる連中はすべてアーシーな音楽的力量をもつミージュシャンである

音楽に詳しくないと何言っているのかさっぱりわからなくても、論理学を知っていればこの論証7が妥当でないことは分かる。つまりジョージ・クリントンの関わったアルバムを一枚も聞いたことがなくても、論理学さえ知っていれば「あなたの論証は妥当ではありません」と言うことは正しい。でもまあ相手は「は!論理って何?オメー聞けば分かるだろ!」って怒り出すかもしれません。そして、結論自体は正しいのかもしれません。
要するに、論証の妥当性は論証の形式formにより、内容contentによらない。そして、そのような論証の妥当性に関わる特別な言葉を論理定項logical constantと呼ぶ。そして、論理定項は1否定詞、2接続詞、3量化詞に分類される。具体的には「すべて」とか「または」ですが、詳しいことはまたの機会、次の章で。