クリティカルシンキングの作法@伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』

哲学思考トレーニング (ちくま新書 (545))
伊勢田 哲治
4480062459

前回読書メモは取ったこの本だが、論文執筆や議論の際に非常に有用だし、http://d.hatena.ne.jp/terracao/20080316/1205667545のような記事が非常にブクマを集めているから、需要はあると思って、ここでまとめることとする。しかしながら、思うにあのような妥当ではない論証パターンを九九のように覚えてもたぶん一般の人にはそれほど有用ではないと思う。というのは、語学を勉強するのと同じように、論証の妥当性を検討する能力を鍛えるには、実際の議論において前提と結論を形式化して、その妥当性を問うという実地での訓練がどうしても必要なものだ。後件肯定や前件否定が非妥当な推論で、肯定式や否定式が妥当な推論だと、話の上で分かっていても、日常での議論のどれがそれらの推論にあたるかどうか、形式化できなくては意味がない。だから、以下でまとめるクリティカルシンキングについても実際の議論に当てはめて、自らその運用実施して初めて身につくものだということを忘れないで欲しい。
余裕があるならば、私自身が昨今話題となっているチベット問題や児童ポルノ法の問題とかについてのクリティカルシンキングの適用を例として行えばいいのかもしれないが、とりあえずめんどくさいので今回はやめとく。
さて伊勢田先生のこの新書は、欧米で流行っているらしいクリティカルシンキングについての入門書ではあるが、かなり豊富な哲学の議論における話題を盛り込んでおり、全体を見通すにはあとがきに書かれているように再構成が必要だ。以下、あとがきにまとめられているクリティカルシンキングの一連の流れを、自分なりに補足なども盛り込みつつ再構成してみる。

  1. 心構え
  2. 議論の明確化
  3. さまざまな文脈
  4. 前提の検討
  5. 推論の検討

心構え

クリティカルシンキングを行う際に前提とされる心構えは大きく二つある。
一つは、ほどよい懐疑的態度である。懐疑的ではければクリティカルではないので、これは当然だろう。付随して重要なポイントは、「相手を疑うことは相手を否定することではない」一方、他方では「自分の主張の間違いを認めて、立場を変えることは、自分が否定されたことではない」ということだ。往々にして議論が感情的に高ぶったとき、この点を忘れやすいので注意が必要だ。批判的な議論には懐疑的な態度が必要だが、それはお互いに敵対することではないのだ。この点は第二の心構えに関係してくる。
クリティカルシンキングを行うための第二の心構えは、議論とは協力的な共同作業であり、正解ではなくより良い回答を目指すものである。特に事実に関するものではなく、価値判断的な議論の場合は最終的な唯一の結論を導く見込みは果てしなく薄いものである。さらに前提とする価値判断が対立する場合は、議論というより相手を貶める論戦になりがちである。そのような事態を防ぐためにも、議論の過程が協力的な共同作業であり、その目的が議論の参加者すべてにとってより良い回答であることを忘れないようにしなければならない。

議論の明確化

さてクリティカルシンキングを行うための心構えができたら(というか常に意識していながら)、まずやるべきことは議論の明確化である。具体的には曖昧な日常言語による議論の前提と推論を明確にして、それぞれを検討することが必要である。
その明確化のためのツールとして、思いやりの原理principle of charity協調原理principle of cooperationの二つが触れられている。
思いやりの原理とは、言語の翻訳可能性についてのデイヴィドソンの議論に由来するもので、非常に簡潔に言ってしまえば、人間がコミュニケーションを成立させるためには相手の発言を寛容な態度によって解釈しなければならないというものだ。日常的な議論などでは、往々にして曖昧な表現やいい間違いなどが多く含まれている。しかしながら、その細かなミスを重箱の隅を突くように批判しても生産的な議論は成立しない。また相手の意図に反して、その主張を曲解することも議論においては想定される。そのような論法は「わら人形論法straw man」と呼ばれるが、これは思いやりの原理には反していると言えるだろう。しかしながら、わら人形論法それ自体が間違いであると言うのはためらわれる。というのは、哲学的な議論においてはこのような反論の仕方はそれほど珍しくないのである(例えばソクラテスの議論の仕方など)。少なくとも相手の曖昧な議論を明確化する際に、相手の主張を様々なやり方で解釈すること自体は必要なわけであるから、解釈を施して同意を得る過程でわら人形は避けては通れない部分ではある。
さてもう一つのツールである協調原理とは、語用論の研究におけるグライスのテーゼである。これは我々のコミュニケーションを潤滑に成り立たせるために必要とされる一般的な原理であり、具体的には以下の4つがあげられる。

語用論-Wikipedeiaより

これは議論の前提、推論を明確化するために使用するというよりも、議論が行われているときにその参加者が従うべき原理として考えたほうが良い。これらの原理に従わない人々は健全な議論の妨げになるだろう。
さてこれらの思いやりの原理と協調原理によって、曖昧な議論を参加者にとってその意図を適切に反映しながら、かつ明確なものへとしていくための指針は分かった。この段階で曖昧な議論において、暗黙とされていた前提が明確になるだろう。次にすべきことは、その議論において用いられる言葉を明確にすることである。
これは一般に言葉の意味の混同equivocationを避けるために必要とする定義による明確化である。定義には議論のレベルに即して様々なものがあるが、ここでは辞書的定義哲学的定義操作的定義の三つに触れられている。辞書的定義とは「ラクダとは砂漠に住むコブのある生き物」のような辞書に書かれるレベルでの定義である。哲学的定義とは、「正三角形は三辺がすべて等しい三角形」のような必要十分条件であり、論理的同値と呼ばれるものであり、一番厳密なレベルでの定義である。操作的定義とは「何々とはこの性格テストで50点以上をとる人」といった調査で確かめられる内容において定義することであり、哲学的には意味の検証理論と呼ばれる考え方である。
議論に応じてどのような定義をすべきかは変わってくるが、論理学や数学やハードな哲学を抜きにするとほとんどの場合は操作的定義か辞書的定義で十分である。何にせよ定義とは議論において用いられる言葉を明確にして意味の混同を引き起こさないようにするための手段であって、それ自体を問題にすることではないことが多い。
さらに価値判断が関わるような議論においては二次的評価語と呼ばれる言葉にも注意することが必要だ。二次的評価語とは事実を記述しながらも、その含みとして評価的なニュアンスを含意するものであり、例えば「人権」などの言葉である。これらの二次的評価語は、その議論の文脈においてどの程度、評価的なニュアンスが含意されているかどうかを明確にしなければ議論の混乱を招く。
さて以上の方法以外にも議論の明確化に関して、思考実験薄い記述thin description分厚い記述thick descriptionの区別などにも触れられている。思考実験とは、日常的には起きそうもない極端な状況を想定することで、暗黙とされている言葉の意味や行為の理由などを明確にする手段である。場合によっては、議論において用いられる言葉が実際の現実を記述するか否かに関わらず、思考実験によって定義づけられていることもある。代表例としては心の哲学における「クオリア」などがそうである。薄い記述と分厚い記述についてはたぶん本書だけでは十分に理解できない。というか価値判断の議論はやはりその他の議論とは異なる特徴を持つので、同じ本で説明するのはなかなか困難である。(というか「薄い/分厚い」というのを記述のレベルで切り分けるのは、人類学におけるフィールドノートに関する発想と関連してミスリーディングな気がする。英米系哲学で「薄い/分厚い」として切り分けられるのは「記述」ではなく「概念concept」な気がするんだけど、ちょっと不勉強で分からない。)

さまざまな文脈

さてある程度、議論に関する主張が明確になったら、その議論を論じる上での文脈を考える必要がある。本書では懐疑論を第3章で文脈主義という立場を紹介するとともに強く推奨している。というのは、クリティカルシンキングとはいってもあまりにも強すぎる懐疑論は議論全体を破産させ、生産的ではないためだ。文脈主義とは簡単にまとめると、同じ人の同じ主張が、判定を下す側の文脈で妥当とも妥当ではないとも判断できる、という可能性を認める立場である。要するに、同じ主張であってもその主張がなされる文脈に応じて、妥当から非妥当のスペクトルにおいて理解するということだ。この文脈主義によって、誤った二分法false dichotomyのような事態を避け、問題の重要度に応じて、求められる知識の確実さの度合いを変化させるべきである。では、具体的にはどのような文脈があるのか?この本では以下の4つを代表的な文脈としてまとめている。(右辺はその文脈における立場の例)

  • 哲学的文脈:デカルト的な根源的な方法論的懐疑、演繹的に妥当な推論のみ受け入れる立場
  • 科学的文脈:反証主義、やわらかい反証主義、確率的推論
  • 倫理的文脈:根源的相対主義、普遍化可能性の基準、一般的に認められる原則を出発点にする
  • 日常的文脈:権威からの議論、対人論法(アド・ホミネム

議論の哲学的文脈では、デカルト的な根源的な懐疑も成り立つ。だからこそ、哲学においては未だに実在論非実在論、観念論といったような日常生活にはまったく影響を及ぼさない事柄についても議論をしているのである。また、多くの哲学においては肯定式や否定式といった一般的な論理法則(特に一階述語論理)や数学的規則に関してはその妥当性が十分に認められている。とはいえ、クリプキクワス算に見られるようにこのような自明な規則自体が疑われることはまれではない。特に科学一般に認められる帰納法に関しても、ヒュームを伝統とする懐疑論は未だに存在し続けている。
科学的文脈においては、そのような哲学的懐疑論の多くは考慮に入れるべき主張としては排除される。数学や論理学の演繹的推論規則は当然妥当性があるものであるし、帰納法アブダクションといった推論も妥当とされる。科学的文脈において一般に認められる立場として、ポパー反証主義などが代表的である。これは、科学とそうではないもの(疑似科学)の間の線引き問題demarcation problemを、その仮説が放棄されうる可能性があることに訴える。つまり、科学的文脈において妥当な主張は、「こういう実験結果や観察結果が出たらこの仮説は放棄せざるをえない」という条件を明確に示していることが要求される。逆に言えば科学的な文脈においては、仮説を立てるときは反証可能なかたちで仮説を立てるべきで、仮説を支持するためにできる限り反証を試みなければならない。
しかしながら反証主義は、実際の科学的な議論においてもいささか強すぎる制約であるので、最近ではやわらかい反証主義と呼ばれるものも提起されている。それによれば、ある仮説が放棄されうる結果が出ても、生産的な言い逃れによって仮説を保持することは認められうる。逆に言えば、本当に疑似科学的な仮説とは同じような非生産的な言い逃ればかりしているようなものである。しかしながら、生産的/非生産的という基準はあくまでも程度問題なので、このような科学的文脈においても議論に要求される妥当性の度合いはある程度アド・ホックに決まると言わざるをえない。
倫理的文脈においては、さらにその要求される妥当性は曖昧にならざるをえない。極論として根源的な価値相対主義の立場に立てば、倫理的(価値判断的)文脈において妥当な議論など存在しないことになる。しかしながら、このような相対主義は自らの立場に対する妥当性にも訴えることができないため、そもそもクリティカルシンキングにおいては有用ではない。そのために根源的な価値の基準として普遍化可能性に訴えることが一般的である。普遍化可能性とは、その価値判断や議論の結論が他の状況がすべて同じであったら、必ず適用されるというものだ。要するに価値的な主張は、ダブルスタンダードのようなものであってはならないというものだ。さらにより実践的な倫理的議論においては、一般に認められる原則や価値観それ自体の妥当性を問わないという文脈もありうる。例えば、死刑制度の存排を議論する際に「人を殺すことは悪いことである」のような一般的な原則は問い直す必要がないというものだ。
日常的な文脈においては、さらにさまざまな度合いの妥当性が要求される。他の文脈においては退けられるような、権威からの議論対人論法といったような立場も、この文脈においては条件付きで認められる。権威からの議論というのは、その名のとおりその知識の妥当性を主張している人や組織の権威に求める立場である。これは、その人や組織が権威を持つとされる理由と、言っている内容の信憑性の間に相関がある限りにおいて、十分に妥当な議論の立場である。また、権威からの議論の正反対である対人論法(アド・ホミネムは、その知識の非妥当性を主張している人を見て判断することである。これも哲学的、科学的文脈においては退けられる立場ではあるが、日常的な文脈においては一定に有用な立場といえる。
さらに生産的に議論するために、文脈主義の立場からは以下のツールが有用である。
まず、関連する対抗仮説relevant alternativeを議論するという方法がある。これはある仮説のすべての対抗仮説を論破するのではなく、まじめにとりあげることができる複数の仮説の中から、一つの主張がもっとも優れていることを認めれば十分に妥当であるというものだ。よって、無限の仮説を考える必要もないし、議論の文脈に応じてデカルト的な懐疑論やヒュームの帰納法への懐疑論はまったく考慮する必要はない。
次に基準の上下によって議論の妥当性を認めるという方法がある。これは、要求される確実さのレベルを文脈によって上げ下げして、それに見合った証拠が得られればその主張は妥当なものだとする。
さらに一定の原則が認められているような場合には、主張の妥当性を示す立証責任burden of proofを判定することによって議論を生産的にできる。立証責任とは、自らの主張を正しいと積極的に示す責任であり、文脈によって変化する。基本的にはもっともらしくない方、つまり特殊な主張をしている方が立証責任を持つ。場合によっては、その主張を立証するのに多くの情報を持っている方が立証責任を持つということもある。
似たような状況においてはまた反照的均衡という考え方がある。これは議論において、すでに一致できているところにはできるだけ手をつけず、不整合が生じている部分を、できるだけ無理の少ない方向で修正を加えるという方法である。

前提の検討

議論の文脈がある程度決まったら、その文脈に応じて前提を検討しなければならない。これはある意味、その文脈に応じて受け入れるべき懐疑主義を決定することでもある。懐疑主義は、ピュロン主義、デカルト的懐疑、ヒューム流の懐疑、倫理的懐疑主義、科学における組織だった懐疑主義など様々ある。前提を検討する際には、どのレベルの懐疑が適当か判断したうえで、その前提を覆すような仮説を考慮する必要がある。ここでも、反証主義とやわらかい反証主義、普遍可能性テストなどの立場が有用となる。(書きながら気づいたけどここは文脈の決定と相関的だから、なんというか重複した内容になっているので割愛する)。

推論の検討

推論には大きく分けて、論理学における推論(演繹的推論)とそれ以外の推論がある。論理学における推論では、例えば肯定式modus ponens、否定式modus tollensは妥当な推論であり、前件否定、後件肯定は妥当ではない推論である*1。これらの推論の妥当性の基準は合理的に議論するには認めざるをえないという意味で、どの議論においても受け入れるべきものである。詳しくは論理学の入門書を読むべきである。
それ以外の推論としては、確率的な推論などがあげられる。これは統計的な証拠や実験などによってその妥当性が認められる推論であって、要するに帰納アブダクションといったものだ。日常生活における議論や科学における議論など、実際の文脈においてはこのような推論を用いないわけにいかないので、基本的には受け入れるべきものである。(これらの推論が論理学の推論ではないというわけではなく、標準的な演繹的な推論ではないということは注意すべきだと思う。)
推論においてはこれらの標準的に妥当であると認められる推論を念頭にする以上に、妥当ではない可能性があるような推論に注意すべきである。具体的には、分配の過ち(グループが全体としてある性質を持つからといってそのメンバーも同じ性質を持つと想定すること)、結合の過ち(メンバーがみなある性質を持つからといってグループも同じ性質を持つと想定すること)、権威からの議論、対人論法、事例による議論(ある特殊な例から一般則を導くこと)、二分法的議論、わら人形論法などがあげられる。さらに価値判断に関する議論においては特に、二重基準ダブルスタンダード)の過ち、自然主義的誤謬(倫理的概念を事実によって定義すること)、自然さからの議論(あることが自然であるということから、その妥当性を主張すること)などに注意すべきだ。これに関しても上記したhttp://d.hatena.ne.jp/terracao/20080316/1205667545でおおよそまとめられている。
とは言いながら、一つ重要な点としては、これらの注意すべき推論のすべてがダメな推論ではないということだ。話し合いをダメにする論証パタン13個でも、「論理ルールの違反」と「論理ルールには従っているが、根拠の引き方に問題がある」と区別されているように、注意すべき推論においても場合によっては妥当なものもありうる。上述したとおり、批判的な権威からの議論や対人論法はあるレベルでの議論においては有用である。さらに一般に「事実と規範の混同」と想定されている「自然主義的誤謬」も、哲学的には実はまだ未決な問題である。事実、サールはある条件においては、一般にヒュームの原理と呼ばれる「『である」から『べき』は導き出せない」に反対している。(ちなみにさらに話をややこしくするが、「自然主義的誤謬」と「ヒュームの原理」は厳密に言うと別物である。でも大抵同じことを意味するものとして使われがちである。)
以上、本書のあとがきの順番で再構成したけど、なかなかすっきりしたとは言いがたい。クリティカルシンキングフローチャートなんかをうまく作れれば良いんだろうけど、とりあえず今回はこれくらいにしておく。やっぱ、この本は新書の割には込み入っていて難しい本であると思う。

*1:論理的に妥当ではない推論に関してはhttp://d.hatena.ne.jp/terracao/20080316/1205667545とかを参照せよ