『論理学をつくる』戸田山和久-第3章読書メモ2

トートロジーの続きから。

トートロジーと分析的真理

前回で真理値分析によって論理式が分類されて、中でもトートロジーってのが重要だとわかった。ここでもう少しトートロジーとは何かということについて考えたい。トートロジーとは「それに含まれる原子式の真理値の取り方に関係なく常に1となる式」ということだから、日本語で考えるならば、要素となっている命題の内容によらず、その形式だけで常に真になるような命題、よって、論理定項の意味だけによって真になる命題である。つまり原子式=単純命題としたとき、それの真偽にかかわらず、その結合の仕方だけで常に真になるような命題である。そしてこれはある意味での真理である。じゃあ、真理って何なのって話になるので例を挙げて考えよう。

  1. 荒木飛呂彦が漫画家であるならば、荒木飛呂彦は漫画家である
  2. 荒木飛呂彦が漫画家であるならば、荒木飛呂彦はマンガを書く人である
  3. 荒木飛呂彦は漫画家であり、『ジョジョの奇妙な冒険』の作者である

これらは全て真理である。しかしながら、1と2に関しては「荒木飛呂彦」や「ジョジョの奇妙な冒険」という固有名詞に関する知識がなくても真だとわかるが、3はこららに関する知識が必要だったり、ウィキペディアで調べたりする必要がある。1や2のようなのを理性の真理とか、分析的真理と呼び、3のような実験や観察といった調査(この場合は調査っていうほどではないがw)を通じて知られる真理は、伝統的に事実の真理とか経験的真理と呼ばれる。具体例としては慣性の法則などの物理学の法則なども経験的真理である。こうした経験的真理は、世界のたまたまの事情によってはじめて真になっている真理であり、偶然的な真理である。例えば、荒木飛呂彦が『ジョジョの奇妙な冒険』の作者ではなくて、鳥山明が作者である世界があるかもしれない。
一方で、言葉の上だけで正しいことが分かってしまう分析的真理は必然的真理である。だって漫画家は漫画家であり、マンガを書く人である。しかしながら、1と2では違いがあり、1は「漫画家」という言葉の意味を知らない人でも真だと分かるが、2は「漫画家」とは何かという言葉の意味を知っている必要がある。つまり分析的真理には、論理定項の意味だけによって真なのと、他の言葉の意味によって真であるものがある。前者をさらに形式的真理とか論理的真理と呼ぶ。こられを以上のようにまとめる。

  1. そこに出てくる語の意味だけによって真であり、現実世界のありさまによって真になるのではないような命題が分析的に真なる命題である。
  2. さらに、そこに出てくる論理結合子の意味だけによって真になるような命題(論理式)をトートロジーと言う。

これらの区別は哲学的に非常に重要なので、大学で哲学を学ぶものにとっては必修である。ゼミで分析的に真であるとか言う言葉が通じないと腹が立ってくる(短気w)。


さてトートロジーは必然的真理だというのは、トートロジーが絶対的な真理であり、とてもエライってわけではない。場合によってはトートロジーはほとんどの人にとってはどうでもいいことがある。実際に議論なんかで「それはトートロジーである」って言う場合は、その命題は必然的に真であるため、重要ではないと言ってると思ってよい。
議論の最中に「AならばAである」と言っても、「それが何か?」と言うしかない。つまり、情報の価値という側面では、トートロジーはどんな場合でも真になるから、最低である。我々が情報として期待するものは、この世界やこの現実がどのようにあるのかである。「本当に日本は格差社会であるのか?」とか「非モテはコミュニケーション弱者であるのか?」といったことが重要であるのであり、「非モテとは非モテのことである」というのはトートロジーで無内容である(一方で「非モテとはモテない人である」というのは分析的真理であるかもしれないが、定義を巡って議論が行われるので、無内容ではないし、実際そういう議論はされてきた)。
トートロジーが無内容であったら、我々の日常にとってすごくどうでもいい物な気がする。しかしながら、現実の内容に興味がある経験科学と違って、論理学はそのような形式的な真理を非常に重要視する。

論理的同値性

さて「来週、ハルヒの第二期が始まります」といったとき、「何曜日ですか?」と質問して「火曜か水曜だよ」って答えるのと「火曜じゃなかったら、水曜だよ」って答えるのは一緒なことである。これがピンと来ない人は論理式を書いて真理値分析をしてみれば良い。「ハルヒの第二期は火曜日である」をP、「ハルヒの第二期は火曜日である」はQであるとすると。

P Q P∨Q ¬P→Q
1 1 1 1
1 0 1 1
0 1 1 1
0 0 0 0

P、Qがどのような真理値の組み合わせであってもP∨Qと¬P→Qの真理値は一致していることが分かるだろう。これを論理的同値logically equivalentと呼ぶ。

《定義》ふたつの論理式A、Bが論理的同値である⇔A、Bは、それを構成する原子式の真理値のいかなる組み合わせに対してもつねに同じ真理値をとる。

そしてA、Bが論理的同値であることをA|==|Bと書くことにする。ここでややこしいのはA|==|Bと、以前出てきた双条件法のP⇔Qを区別することである。さらに、上の定義での⇔と双条件法の⇔も別物だってことだ。戸田山先生の本では双条件法を両端に先があるやじるし(←→のような)やつで書いているが、どうもその記号をうまく書くことができない。ググってもみんな双条件法の表記には困っているようである(<->のような記号で書いている)。
今後、どのようなスタイルで表記すべきか迷うけど、とりあえず教科書にあわせて《定義》の中に出てくる⇔は、「〜⇔…は 〜というのはつまり、次のことの手短な言い方である。すなわち…」という文の省略としよう。で、双条件法と論理的同値の違いであるが、双条件法P<->Qは一つの論理式であって、言語Lの一員である。しかし、論理的同値A|==|BはLに属する式ではなく、日本語に属する文である。この辺、かなり抽象的で自分でもピンとはこないが、要するに論理式とそれを記述するメタ論理を区別することが重要なのだと思う。
前回、英語の「A, if and only if B」を私は論理的同値として理解していると書いていたが、双条件法と論理的同値が違うのならば、これは間違いにあたる。しかしながら、人工言語Lと自然言語の間を行き来しているような場合ではなく、自然言語の中での論理的な事柄を扱っている場合AiffBは論理的同値として考えていいじゃないかと思っているし、みんなそうしているような気がするんですけど、自信ないんで誰か教えて。
表記の問題は今後考えるとして先を急ごう。練習問題10はそんなに難しくないが、新しい用語が導入されるのでとりあえず押さえておこう。まず、A→Bに対して、B→AをA→Bの逆inverseと言う。あと、A→Bに対して¬B→¬Aを対偶contrapositionという。真理値分析すれば簡単に分かるけど、ある論理式の逆は必ずしも真ではないが、対偶は論理的同値になるので、A→Bと¬B→¬Aは同じことを言っているのである。だから、A→Bを証明するのが難しい場合、対偶法と呼ばれる証明方法によって¬B→¬Aを証明することで、A→B証明したことにする。これは高校数学で教わることだから、一般常識問題にも頻出である。まさに受験に役立つ論理学の代表例。あとさらに定理が加わる。

《定理5》
2つの論理式A、Bが論理的同値であるならば、論理式A<->Bはトートロジーであるし、A<->Bがトートロジーであるならば、A、Bは論理的同値である。

この定理の証明が求められるけど、なんつーか当たり前じゃんという証明(まあ証明ってそうだけど)になる。ってことはやっぱり双条件法と論理的同値って同じなんじゃね?って疑問が浮かぶけど、コレが定理であるということはそれが同じことが最初から決まってることではないということなんだよね?なんだかよく分からんです、この辺。


まあ論理的同値と双条件法の疑問を置いといて先に進む。以上で説明した同値を生かして、論理式Aをそれと同値な別の論理式Bに変形することを同値変形という。これは表が出てきて色々な法則が述べられるけど、めんどくさいんで書かない。しかしかながら、名称自体はトートロジーに出てきた、結合律とかド・モルガンの法則が上げられるから、ますます双条件法と論理的同値とトートロジーの関係が混乱してくる。まあ、良いそのうちわかるだろう。同値変形はようするにAとBは同じことを言ってるじゃん、という規則によって色々論理式を変形していくことができる。そしてその変形された論理式を証明すれば、オリジナルの論理式も証明されたことになるので非常に重要である。
ここで同値変形の例が挙げられている

¬¬¬(¬P∧¬Q)・・・1

== ¬(¬P∧¬Q)・・・2
== ¬¬P∨¬¬Q・・・3
== P∨¬¬Q・・・4
== P∨Q・・・5

詳述はしないが、二重否定律とド・モルガンの法則を使ったごく簡単な同値変形である。ただし、1,2,3の変形と4,5の変形は事情が異なる。前者は論理式全体の変形だけど、論理式の一部の書き換えだからだ。これが成り立つためには次の置き換えの定理replacement theoremを証明しなくてはならない。

《定理6:置き換えの定理》論理式Aを何回か含む論理式を、C[A]と書くことにする。C[A]の中のAを論理式Bで置き換えた結果(ただしAが生じるすべてのところで置き換えなくてもよい)をC[B]とする。このとき、
AとBが論理的同値であるならばC[A]とC[B]も論理的同値である。
つまり、ある式の一部とそれと論理的に同値な式に置き換えた結果はもとの式と論敵に同値である。

この定理は直接証明できるけど、もっと有用な強い置き換えの定理を先に証明する。

《定理7:強い置き換えの定理》(A←→B)→(C[A]←→C[B])はトートロジーである。

(やっぱ双条件法は←→で表記しよう。その方が直感的だし、経済的。)
この証明なんというかシンプルだけに理解するのが難しい。でもここでは証明はほっといて、とりあえず定理の意味だけ理解すればよしとしよう。まず、(A←→B)が0だったら前件が偽の条件法ゆえに、全体は1。(A←→B)が1だったら、トートロジーになるためには後件の(C[A]←→C[B])も1である必要がある。つまりAとBが論理的同値であるならばC[A]とC[B]も論理的同値であるとなるんだと思う(うーむ抽象性が高すぎて自分で書いててもなんだか分からん気もする)。
ここから以前の練習問題9で証明された

《定理8》AとA→Bがともにトートロジーならば、Bもトートロジーである。

という定理を使って定理6を証明するが詳述しない。


さて真理値分析すれば分かるけど、(A∧B)∧CとA∧(B∧C)のようなやつは論理的同値であるから、式の形に注目しているときは、ともかく、式の意味(真偽)に注目している場面では、選言と連言に関してはA∧B∧CとかA∨B∨Cと省略してよい。他の結合子にそのようなわけにいかない。ただし、排他的選言においてもAUBUCのようなものは成り立つ。ただしこれは、「食後にコーヒーまたは紅茶または緑茶どれかお選びいただけます。」というような日常的な連続する排他的選言とは違う意味を持っているのである。練習11でそのことが扱われているからやってみるとよい。

補足:日本語の「または」と排他的選言

P∨Qが日本語の喫茶店の「コーヒーまたは紅茶」の「または」と違い、コーヒー/紅茶のような「または」を排他的選言として決めたが、「食後にコーヒーまたは紅茶または緑茶どれかお選びいただけます」がPUQURと異なっているということは、日本語の「または」は排他的選言とも違う意味を持っているということである(ちなみに排他的選言の連続は各論理式の真理値の値の合計が奇数のとき真となる結合子である。練習11の解答を参照せよ)。
じゃあ、我々が、「食後にコーヒーまたは紅茶または緑茶どれかお選びいただけます」と言っているとき、論理的にそれはどのような構造をとっているのであろうか。真理値分析して確かめてみたけど、これは¬((A∧B)∨(B∧C)∨(C∧A))∧(A∨B∨C)によって表されるのだろう。無理やり日本語でいうならば、「コーヒーかつ紅茶、または、紅茶かつ緑茶、または、緑茶かつコーヒ、の両者を選択することなく、かつ、コーヒーまたは紅茶または緑茶を選択する」とでも言うべきか。このような日本語の「または」は明らかにPUQURのような排他的選言の連続ではないから、べつの結合子として考えるべきのように思えるが、そんなのまで決めたらめんどいだろうな。実際のところ、日本語の意味論的に「または」は論理的解釈の多様性を許しているように思えるため、喫茶店の「または」に関して、我々が選択肢の中からただ一つしか選ばないのは、意味論上の問題ではなく、語用論の問題であるのだろうか?つまり、今っぽく言うと、我々は「空気を読んで」A〜Cの中から一つの選択肢を選んでいるのか?
うーむどうもそうじゃないよね。我々は論理学以前に、複数の選択肢から「ただ一つ選べ」という意味での「または」という用法に慣れきっているように思える。実際のところ、定時点において複数の事実からなる選択肢に対して、我々は「ただ一つしか選べ」ない。つまり、これはなんという論理学と言語学依然の我々の思考様式のように思える。
まあ何にしても、哲学から論理学に入った自分としては日常的な言語使用、思考形式と論理の違いみたいのを今後も注目していきたいと思う。