ムーアの自然主義的誤謬

自分の批評の研究はまず現代のメタ倫理学の理論を学ぶことから始めている。批評とメタ倫理の間にいかなる関係があるかは、すこしわかりにくいと思われるが、「あることがよい」とは何かと問うメタ倫理と「あるものが美しい」とは何かと問う批評に関する研究がある共通した問題を扱っていることは明らかだ。それはおそらく価値語と呼ばれる独特な言葉の論理的振る舞いを追求することであり、私の修士論文の目標はその点からポピュラー音楽のジャンル・タームの独自性に迫ろうとするものだ。そのためにまず「よい」という言葉を探求している現代のメタ倫理の理論を援用することによって、美学の領域で曖昧にされている問題、理論を整理することから始めたい。「あるものが美しい」とは何か?美的概念の論理的特徴は何か?といった問題は分析美学の領域で今まで常に問われてきたものである。だがそれを学ぶ過程で美学理論には、美的性質の実在性や批評的言説の指令性などの基礎的な問題に対する体系だった理論的立場の整理が欠けていると思うようになった。そこで認知主義、非認知主義、自然主義、非自然主義実在論非実在論、内在主義、外在主義といった体系だった理論の区別が行われている現代メタ倫理の学説を見ることで、美学理論にもそのような区別を行うことにする。
そこで現代のメタ倫理についての参考書についてこの本を用いる。
Introduction to Contemporary Metaethics
Alexander Miller
074562345X

1Introductionのメモはesのトラブルゆえに失われてしまったorz
まあこの章はメタ倫理の理論の基本的立場のごく簡単な整理なので特にまとめる必要はないか。全体の理論を見渡したあと、もう一度それぞれの理論を整理し、美学の理論に適用できるかどうかを考える必要はあるが、今は割愛。
で本題の2Moore's Attack on Ethical Naturalismのまとめとコメントに入る。ここでは倫理学において今まで当然なものとして考えられていた自然主義に対するムーアの異論とその反論が説明されている。
ムーアはPrincipia Ethicaで以下のような古典的開かれた問い論法(classic open-question argument以下COQA)を議論した。(Miller 2003: 13-14)
(1) 述語「よい」が自然主義的述語Nと同義、あるいは分析的に同値であると仮定する。
そのとき
(2) 「xはよい」とは、「xはNである」という主張の意味の一部である。
だがそのとき
(3) 「Nであるxもまたよいのか?」とまじめに質問した者は概念的な混乱を晒すであろう。
だが実際には
(4) どのような自然性質Nが与えられても、あるNであるxはよいかどうかは常に開かれた問いである。つまり、どのようなNであるxにおいてもそれ(x)がよいかどうかは、常に意義のある問いである。よって「Nであるxもまたよいのか?」と質問することはいかなる概念的な混乱も晒すことはない。
よって
(5) 「よい」がNと同義、あるいは分析的に同値であるというケースはありえない。
つまり
(6) よいことである性質は概念的に必然性をもってNであるという性質と同値ではありえない。
このCOQAは自然主義的誤謬(The Naturalistic Fallacy)と呼ばれる自然主義に対する強烈なアンチテーゼを打ち立てたのではあるが、ミラーはCOQAに対する反論を以下の三つにまとめる。

  1. Frankena’s objection
  2. The ‘no interesting analyses’ objection
  3. The ‘sense-reference’ objection

ここで重要になってくるのはムーアのCOQAがどのような自然主義に対して反論しているかを明らかにすることだ。倫理学における自然主義といってもその内実は広い。ミラーによれば自然主義とは「倫理的な文の真理条件は自然性質の例示に関する事実によって決定される」という立場である。一方でムーアがCOQAで反論したのは定義的自然主義(definitional naturalism)であり、それは「倫理性質は定義的、概念的事実として自然性質と同じ、または自然性質に還元できるという考え方」である。
このようにムーアの意図する反論相手を考えるとその批判を有効なものとして成り立っていないと思われる。詳しくここで書かないが、ミラーがまとめた1、2の反論はムーアのCOQAが(4)の主張つまり「Pのどのような正しい分析P*があったとしても、P*であるxはPか?という問いは常に意義がある。」が既に定義的、分析的自然主義を排除した上の論理によって成り立っていることを指摘している。つまりCOQAは自然主義の不可能性を積極的に提示したものではなく、その議論を受け入れるかどうかで自然主義者か非自然主義者かを区別する前提のようなものでしかない。そしてムーア自身の倫理に関する主張である直観主義の説得力がはなはだ疑問な者でしかないため、COQAによって分かたれる自然主義と非自然主義の立場は両者とも相手を納得させることがなく平行線を保つだけである。
おそらくCOQAによって分かたれる、倫理性質は自然性質によって分析可能であると考える自然主義者も、倫理性質は分析不可能だと主張するムーアもどこか誤った想定をしているように思える。(ムーアはさらにいかなる分析も意味を持たないという分析のパラドックスさえも主張する!)
長くなったので次回この点を、フレーゲの「Sinn und Bedeutung」の議論からミラーが提起した3の批判を、概念、性質といったものを文パラダイムから意味論的捉え方へのシフトと捉えることであきらかにしたい。