Charles Boilès‘Universals of Musical Behaviour: A Taxonomic Approach’the world of music 26, 1984(2):50-65.

谷口さんご推薦のこの論文を読んだ。著者はシャルル・ボアレス(?)かな。民族音楽学者だと思われる。
内容は人類に普遍的な音楽的行動を分類することにある。Boilèsは過去の民族音楽の研究から、「いかなる絶対的な音楽の普遍概念も存在しない」としながらも、「すべての人々があるタイプの音楽的行動をすること」は普遍的であると認める。そこから彼は「音楽」そのものには唯名論的立場をとりながら、「音楽的musical」は一般的な言葉として使用でき、「音楽的であるもの」の普遍性について議論する。
Boilèsは「音楽的行動」における「音楽的」という概念の理解を、その行動の意図のレベルで行う。つまり、音楽的
であるという意図を持って行った行動が音楽的行動である。それでは「音楽的な意図」とは何か。それは「独特な種類の持続や持続の質を持っているものとして、諸感官を通して知覚される、時空間でのパターンを生産する構成」を要求するものである。「諸感官を通して」っていうことは、要するに、聴覚に限らないことを意味している。そして以降でBoilèsは、音楽的行動をまず4つのタイプの音楽的意図に分け、さらに感官の違いからそれぞれを2つのクラスに分ける。以下はその分類体系の簡単な図式である。

  1. 決定的(determinate)
    • aural:録音物(テープ、ディスク、オルゴールのシリンター、ピアノロール)、信号音を出すデバイス(チャイム、サイレン、クラクション…)、様々な楽譜
      • vocal
      • instrument
    • visual
      • graphic:様々な楽譜
      • kinetic
      • kineluminescent:映像(映画、ビデオ、アニメ)
  2. プログラム的(programmatic)
  3. 即時的(immediate)
    • aural
      • vocal:発話、弁論
      • instrument:即興(ジャズ、ラーガ、マカーム)、テレタイプ的なもの(モールス信号とか)
    • visual
      • graphic
      • kinetic:(即興的な)ダンス、手旗信号、手話
      • kineluminescent:ヘリオグラフやフラッシュの信号、(即興的な)VJ
  4. 確率的(probabilistic)
    • aural
      • vocal
      • instrument
    • visual
      • graphic
      • kinetic
      • kineluminescent

なんか具体例書いていて、エレガントな分類とは思えなくなってきた。とりあえず最初の4つのクラスのとその次の聴覚視覚による分類は理解できるけど、それ以下のクラスはなんだかややこしい。めんどくさいから、個々の具体例は省く。
とりあえず、まず第一段階の4つの行動のタイプの説明をさせていただく。
まず1の決定的な音楽的構成とは、端的に言うとメディアに固定されたものである。つまり、CDやレコード、聴覚に限らず言えば映画のフィルムとかも。さらには一定の音を発する装置なんかも個々に分類される。楽譜については、それが読める人にとっては聴覚的な決定的な音楽的構成であるが、おそらく、Boilèsによれば読めない人にとっても視覚的なgraphicな音楽的構成であると思われる。
次に2のプログラム的な音楽的構成とは、要するにあらかじめ定まっているプログラムに従って行うものである。そのため、それはプログラムが実行されて、現実において具現化される必要がある。具体的には、楽譜などに従うクラシックの演奏や、即興を除くほとんどの演奏、さらに台本が決まっているスピーチなども含む。聴覚的なものには、あらかじめ決められた音による信号や、儀式のためのトーキングドラムとかも。さらに視覚的なものには、一定のプログラムや指図がある場合、ダンスや集団作業(山○パン工場での作業とかw)、アクロバットとかも含まれるみたい。
3の即時的な音楽的構成は、基本的には即興演奏や生成的な言語発話みたいなもんを考えればよい。要するに2とは違い、あらかじめその構成が決定されていないものであるが、一定のルールに従ってその都度、新しい構成を生成するものだ。だから、一般的な人間の発話行為や弁論も含み、さらにはモールス信号とか手旗信号とかも含む。トーキングドラムが遠隔地の情報交換において使われるときはこっちに属す。そしてもちろん即興的なダンス、つまりクラブで踊ることとかもこっちに属す。
4の確率的な音楽的構成はいちばんよくわからんものです。要するに2とは違って具体的なプログラムがあるわけでもなく、3とも違って一定のルールがあるんではなくて、要するにチャンス・オペレーション的な確率的なマトリクスによって生成するもの?なようだ。実際に存在しているかどうかは謎なんで深入りしないです。
ともかく、音楽的行動の意図から見たこの4つのタイプに音楽的構成はそれなりにうまくまとめていると思われる。実際に、この前書いたStephen Daviesの音楽作品の存在論http://d.hatena.ne.jp/shinimai/20070821/p2参照)と似ているように思われる。1は要するに「コピーがそれから複製され、流布されるマスターとしての」作品であるし、2は「ライブ・パフォーマンスのための」作品であると言える。3についてはDaviesは即興演奏を作品と呼ぶことは誤解を招く(その理由は詳述しないが評価にレレバントな性質が作品と即興という存在形態ではぜんぜん違うから)として扱っていなし、4みたいな音楽作品はレアケースだから無視できる。違いはBoilèsが諸感官による分類を音楽に本質的なものとして認めないことと、言語的記号体系を備えた構成物を音楽から区別しない点にある。上述したとおり
「独特な種類の持続や持続の質を持っているものとして、諸感官を通して知覚される、時空間でのパターンを生産する構成」を音楽的なものと定義するなら確かにそうであろう。
音楽を聴覚的な物理現象に限定しない立場はまあ認めてもいいだろう。多くの民族音楽学者はダンスを音楽のサブクラスとして考えることがあるだろう。
問題は「言語的記号体系を備えた構成物」、要するに一般的な発話行為やスピーチ、弁論、モールス信号とかそういうものを「音楽的なるもの」に含めることの妥当性である。確かに、スピーチや弁論、オレは良く分からんけどモールス信号wを「音楽的」だと思うことはできる。そのような我々の言語的な記号体系、要するに文法=統語論を備えたものにも、「音楽的」な要素があるのは分かる。そして、曖昧で確定的ではないがクラシックなどの西洋音楽にもそのような文法的な部分もある。しかし、そのような「記号体系を持つ」という要素はどれほど「音楽的」であるのだろうか?自然言語トーキングドラムとか信号音がどれほど「音楽的」であっても、それらが「記号体系を持つ」という要素は「音楽」という概念にとって偶然的なものではないのだろうか。
オレがBoilèsの分類に一番難色を示す部分はココである。たぶん、グッドマンが分析した様々な記号体系の分類基準、「構文論的に緻密で綴りをもたない/構文論的に互いに素であり綴りをもつ」がここに来て重要となってくるように思われる。グッドマンは西洋音楽の作品にとって楽譜を重視して、音楽作品はその両者の間らへんにあるとか言うけど、オレにとってそれが「音楽的」であるってことは「構文論的に稠密で綴りをもたない」までとは言わないものの、構文論的な綴りの間に何かを求めることが重要であるように思われる。
音楽は言語であるというような意見の人なら真っ先に反論しそうな主張であるように思われる。しかし、我々が言語とは別に音楽なる概念やその他もろもろの行為を太古の昔から続けてきたことを考えれば、そのほうが自然に感じる。音楽が音楽として楽譜のようなものだけで成立するのではなく、聞かれなければいけない理由はやはりそれが、記号体系を持ちながらもその体系の隙間を楽しむことにあるからのように思われる。
何かちょっとまとまりが悪くなったが、これらの論点はまた分かりやすく書く予定。分類表は未完成で、完成させる気がない・・・。kinetic、kineluminescentとかの概念についてもめんどくさいし、自分には関係ないからまあいいや。
ちなみにグッドマン的な視点の導入に関しては以下の増田氏の古い記述に触発された。ちなみにBoilèsのこの分類はSeegerの分類に非常に影響を受けたものだ。
http://homepage3.nifty.com/MASUDA/tsuratsura/tsuratsura3.html

pp.88-89。音楽作品について「物質形態/存在形態」の区分。前者は「中立レベル」であり後者はロマン・インガルデン的な哲学的存在論に委ねられる。しかし前者を「記譜」によって離散的に弁別せねば音楽記号学は不可能であるとするナティエの主張は謬見と映る。「採譜された楽譜(Seeger の descriptive notation)によって実際の音を示すことができなければ、我々研究者としてはどうしようもないからである」(p.92)。方法論的な便宜の優先はそれまでの慎重な議論に比してなんとも御都合主義である。ならば音楽記号学において、離散的分析は不能である場合も存在する、と認める勇気を持つべきではあるまいか。おそらくナティエはネルソン・グッドマン同様(もちろんインガルデン同様)メディア論的な視点を捨象している(あるいはクリス・カトラーのいう「三つの記憶装置」のうち古い二つしか考慮に入れていない。『ファイル・アンダー・ポピュラー』水声社)。すくなくともレコード音楽の中立レベルは、映像あるいは彫刻と同様「構文論的に稠密で綴りをもたない」複数記号系(ネルソン・グッドマン)である(『世界制作の方法』みすず書房参照)。映像分析? 彫刻分析?(ナティエならばそれは「感受レベルでの隠喩的解釈項による疑似分析」と呼ぶのであろうか)。そうではなく、レコード音楽の中立レベルについてそれが一見「綴りをもつ」ように(創出レベルあるいは感受レベルで)取り扱わせているところの「力」を見るべきであろう。ここでも記号学的分析の限界がイデオロギー論に突き当たる。音楽の学問は離散的テクスト分析に止まるものでは決してない。