現代(の)美学を大いに盛り上げる人たちの団1回目:「美的判断」(in SEP):続き

前回:http://d.hatena.ne.jp/shinimai/20070413/p1
‘Aesthetic Judgment'(http://plato.stanford.edu/entries/aesthetic-judgment/)by Nick Zangwill

1.0 趣味判断
 1.1 主観性
 1.2 規範性
 1.3 規範性の改定
 1.4 規範性と快
 1.5 趣味判断と大きな問題

2.0 美的判断の他の特徴
 2.1 美的真理
 2.2 心的独立性と非美的依存性
 2.3 依存性と法則性
 2.4 正しさの優位

3.0 美的な観念
 3.1 問題といくつかの用語法的指摘
 3.2 階層的提案
3.3 美的教訓

えー前回は1と2と3.2までの内容をまとめましたが、今回は3.2のザングウィル氏の「階層的提案(The Hierarchical Proposal)」についてもう少しツッこんで行きたいと思います。
まず、「階層的提案」の内容についておさらいすると

趣味判断、もしくは美と醜の判断を「評決的美的判断(verdictive aesthetic judgments)」と我々は呼びたい、そしてその他の美的判断(daintiness, dumpiness, elegance, delicacyなどの)を「実体的美的判断(substantive aesthetic judgments)」と呼びたい。そのアイデアは、これらの実体的判断は、主観的に普遍的である評決的な趣味判断と特殊に緊密な関係であるがため、美的であるというものだ。

という評決的美的判断と実体的美的判断の区分と

第一に、実体的判断は、美しい、もしくは醜いあり方を記述する。ある物がある特定のあり方で美しいのは、そのものがelegant, delicate, daintyであることの一部である。そして第二に、それらが評決的美的判断を含意することが、実体的美的判断の意味の一部である。

というそれらの両者の関係が提示される。
3.3はほぼ全体のまとめになっているので要約は以上くらいにして、この「階層的提案」について少しコメントしてみたい。
まず、これは勉強会でも議論になったが、1、2と3の間の関係がちょっとよく分からない。前回に要約したとおり、1はカントの趣味判断論を踏み台として、美的判断という問題設定が述べられ、2では現代の美学におけるその美的判断のその他の特徴について解説されているのだが、3に入り問題が「美的(the aesthetic)」という概念全体に広がっている。そもそも「階層的提案」とは何に対しての「提案」であるのかがいまいち掴めないのだ。
勉強会では異論があったが、私はこれについて以下のように理解している。この項目を通してニック・ザングウィルは20世紀の知的な潮流として「美的」という観念への軽視、非難に言及すると共に、そのような軽視、非難から「美的」という観念を擁護したいという意志を感じさせるような論調をとっている。特に冒頭と3.3ではそれははっきり示されているし、1.2の規範性においても美的判断の相対主義に対して厳しく反論している。ということはつまり、この‘Aesthetic Judgment'は当然ながら「美的判断」を扱った項目でありながら、同時に「美的」という概念そのものも扱っていると言える。実際に、3.1で以下のように言っている。

「美的」という述語は多くの異なった種類の物事を修飾することができる。判断、経験、概念、性質、言葉。美的判断を中心として見るのがおそらく一番良いだろう。我々は他の美的な種類の物事を、美的判断の点で理解できる。美的性質は美的判断において帰属される。美的経験は美的判断に基づいたものである。美的概念は美的判断において使用されるものである。そして美的な言葉は美的判断の言語的表現において典型的に用いられるものである。

つまり、「階層的提案」というのは、「美的という概念は持続可能なものなのか?」、「美的判断などというものは存在するのか?」、「もし、存在するのであるならば、それはどういったものであるのか?」というような疑問に答えるための一つの提案であるのだろう。「階層的」という言葉に関しては、実体的美的判断に対してそれより高階の評決的美的判断を規定するという意味と、「我々は、美的観念の平等主義的理論よりも階層的なものを必要とする」から窺えるような「美的」という観念への相対主義、平等主義にアンチであるという意味がこめられていると思われる。


ではそのような「階層的提案」は以上で挙げた疑問にどのように答えることができるのであろうか。ザングウィルはここでははっきりと「美的」という観念の擁護に「階層的提案」が如何に有用かを述べていないのではあるが、2で述べられた現代の美学で指摘される美的判断の特徴――主に非美的依存性と非法則性――を考慮した上でここで再構成してみたい。
まず「美的」という観念を考える上で、「美的判断」を中心とするのが良いのことは上述の通りである。そのとき「美的判断」という熟語化によって意味される重要なことは、前回挙げた1から4と共に、それが主観的かつ規範的な判断であるということだ。この主観的な規範性に関しては、基本的にザングウィルはカントのアイデアの延長線上にある美という主観的な快の反応の規範性にルーツがあると考えている。この問題自体は形而上学的度合いを高めること無しにこれ以上追求できないので踏み込まない。だが主観的でありながら規範的であるということは、現代の美的判断の特徴として認められていることがらによってより詳細に記述可能である。それは2.3で以下のように述べられるように、美的判断は非美的性質に依存すると共に、非法則的であってその関係を記述できないということだ。

その種の非法則性は一つのことで、依存性や随伴性(supervenience)は他のことである。たとえ美的性質が非法則的であっても、それらは非美的性質に依存したり、随伴したりする。多くの者は、美学の外部、倫理哲学や心の哲学のような分野において、そのような居心地の悪い関係のコンビネーションを見出す。それでもやはり、美学における両方の原則は受入れるべき良い理由があると思われる。

つまり、美的判断の規範性と主観性は現代的な特徴から記述すると、その判断は何らかの実在的な非美的性質に依存、もしくは随伴しているために、正しさを訴えることができるものであり、主観性とはその美的判断とその根拠となる非美的性質の間のルールが非法則的で主観的にしか掴めないというものであると言える*1
以上のように理解するならば、ザングウィルの「階層的提案」はその非美的依存性と非法則性に関してさらなることを言及しているように思われる。
まず第一に、美的性質の非美的性質への依存関係を非美的性質―美的性質という二項関係から、非美的性質―実体的美的性質―評決的美的性質という参考関係によって捉えなおしたことが挙げられる。「実体的美的判断は20世紀後半に多くの関心を引いてきた」と言っているように、非美的/美的の依存関係を指摘してきたFrank Sibleyなどは基本的に「美しい」や「醜い」といった極めて価値的であり記述的内容が薄い述語よりも、「優美である」や「均整が取れている」といった分厚い述語に注目してきた。そのため、非美的/美的という区分を「非美的な性質の識別が健全な視覚、聴覚を持った人なら誰でも達せられる一方で、美的性質の識別は特殊な感受性を要求する」といった「感受性」の側面から説明することによって解決しようとしたが、そのような「感受性」の中身の説明は非常に乏しいものになった。ザングウィルの提案はそのような「感受性」といった謎めいた能力を規定することなく、「実体的判断は、主観的に普遍的である評決的な趣味判断と特殊に緊密な関係であるがため、美的である」とすることで、実体的な美的性質が「美的」である所以を評決的美的判断との結びつきから説明することができる。
さらに第二点として、非美的/美的の非法則性を実体的美的判断が評決的美的判断を含意することからより詳細に記述できる。自らの階層的提案がいかに有用かを具体的に論じるにあたってザングウィルは以下のような議論を行う。

エレガントである、曲がった線の抽象的なパターンを考えてみよ。そのパターンが美しいことは、必然的であるだろう。これは、その美が、その特定のパターンに依存するか、そのパターンによって決定されているからだ。しかし、それが美しいことは、そのパターンであることの一部ではない。つまり、そのパターンは必然的に美しいが、それは本質的に美しいわけではない。

ここではザングウィルはある特定の曲がった線のパターンがエレガントであることは、必然的に美しいことを含意しながらも、本質的に美しくないと主張する(必然と本質の間の一般的区別に関しては、Fine1994を見よ)。つまりある特定の実体的美的判断はある評決的美的判断(美しい/醜い、もしくは美的な長所/短所を持つ)を必然的に含意するわけだが、そのような実体的美的判断から本質的に評決的美的判断を導くことができるわけではなく、その関係は個々に応じて非法則的であるわけだ。当然、「いやエレガントでありながら、それが美しいこと(美的な長所)を必然的に帰結しない何かは想定できる」と反論する者もいるだろう(例えばロックンロールのエレガントな演奏は必ずしも美的な長所を帰結しないであるだろう)。しかし、そのような場合は「エレガント」という実体的美的判断が負の方向の評決的美的判断を含意していると理解することでザングウィルの提案は持続可能なもののように思われる。


さて以上のようにザングウィルの「階層的提案」を好意的に解釈するなら、それは確かに現代の「美的判断」という観念をより詳細に記述しており、有用な性格付けを行っていると言えるだろう。ただしもちろん様々な問題は依然として存在する。次回はその問題について議論したいと思う。

*1:そのような主観的な美的判断の根拠付けをFrank Sibleyは「知覚的証明(perceptual proof)」と呼んでいる。