Jerrold Levinson‘Aesthetic Properties, Evaluative Force, and Differeces of Sensibility’論文紹介@コロキウム

このために一週間、日記もかけずにいたのだが、先週金曜に終わったんで感想など。
「美的性質の実在論」っていうかなり大胆な立場を主張する(ってかまあ擁護する)この論文だけど、「なんで実在論なんて唱える必要などあるの?」っていうある意味予想しうる反応が当然あった。科学実在論が我々の生活に利する科学的技術の発展に貢献する探求への意欲を生み出し、道徳的実在論が文化相対主義を乗り越えた道徳的判断の真偽値を与えるのに対して、美的実在論はいったい何の役に立つのだ?と。まあそんな問いかけは当然でると思われて、それに類する質問はあったのだけど、感覚として感じたのは、そもそもみんな美的判断が真理値をとれるかどうかってこと自体に興味がないのではといった、まさしく学問的な趣味の不一致だったようにも思われた。
おそらくレヴィンソンが研究しているアメリカなどの哲学科では、科学や道徳と並んで美的性質、さらには最近の話題ではクオリアって言うものに関して、実在論非実在論の立場が対立しながらお互いにその理論を磨いていると思われるが、ことに日本の美学を学ぶものの間にそういった問題関心がそもそもないんじゃないかってことだ。
美的判断が一致する根拠について、「それは文化や伝統においてそう決まっているんだ」といった型にはまった文化構築主義なんて、いまやもう常識でしかないが、それを超えて「実際にどうやって一致すんだよ?感想文と優れた批評の間に違いはあるんか?ないんか?え?」って問われた場合、取りうる形がレヴィンソンの美的実在論であるってことが上手く伝わらなかった気がする。
あと、美的性質を認識する能力、つまりは感受性であるが、「それが文化や伝統、芸術の歴史や教養といったものによって構築されてるとしたら、実在論ではない」という質問があったが、それはおそらく実在論を非常に狭くとっているからだろうと後から気が付いたけど、うまく言えなかった。おそらくその人の実在論には自然主義実在論しかないのであって、ムーアが主張したような非自然主義実在論は念頭になかったんだろう(まあムーアが主張している実在論はようわからんってのは確かにそうなんだが)。物事の自然的性質よりも高次の美的な性質があり、その性質を認識するには文化や伝統といった知識が必要だっていうのは、決して非実在論ではない。真偽を判定できる基準が物事にある以上、それは実在論であり、そういった意味でレヴィンソンの美的実在論は、非自然主義実在論なんだろう。まあ俺はそうは思わんってのはやっぱりみんなと同じ意見なんだが。
ともかく、美的判断に関して、実在論非実在論といった理論的立場を鮮明にすることは、場当たり的な美学理論においては非常に有用だと思って紹介したんだけど、その辺うまく伝わった自信がないなー、やっぱり。あとそれから俺自身の関心は、美的判断に関して、メタ倫理学で言われる内在主義と外在主義の立場の違いを上手く導入して、そこから偽美といった問題を扱えないかを考えることである。ただしその場合は、一人称的な判断ではなく、複数の人間の間にある判断のコミュニュケーション、まあそれが批評とかだと思うんだが、を考える必要がある。そのため、今は語用論の方に興味が傾いています。以上!