読んだ。

善と悪―倫理学への招待
大庭 健
4004310393

最近出た新書であるが、どうも近頃の新書ブームのなかでは難しすぎるというか抽象的すぎる(っていうか近頃の新書が安易な話ばっかでアレなんだが)一方で研究書としては文献のリファレンスがなさ過ぎてどっちつかずであるという感じたった。メタ倫理の議論から実践的な道徳原理を導くという果敢な試みは非常に感服するのだが、前半と後半にギャップを感じるのは否めない。基本的にブラックバーンの投影主義+準実在論vsウィリアムズやマクダウェル、ウィギンズの徳の倫理学を戦わせて、主に後者に組しながら反自然主義的な実在論を唱え、道徳原理を引き出すといった流れか。
ともあれ実在論反実在論の話は自分の研究や最近の美学の問題に非常に参考になる。例えば、

そもそも、ものごとに接したとき、ある述語Pを適用していいのか否か。これを区別するときに、対象の側からの制約が働くとしたら、その限りにおいて、述語Pは、実在的な性質を表しているのではなかろうか。そうした性質は、なんらかの科学的な性質に還元できないかぎり、じつは実在していない、とするのは、実在という概念をあまりにもやせ衰えさせてしまうのではあるまいか?(pp. 97)

とか。
このあとの章ではウィギンズなどを引きながら、実践に内在的な言語の実在性の話をするのだが、これらの道徳的実在論の比較項としてあげられるのがまさしく美的実在論であるといってよい。道徳的実在論と美的実在論のどちらが説得的に提起できるのであろうかと考えるに、以前は道徳的実在論の方が説得的だと思ってたけど、当の道徳的実在論を正当化する議論の中で美的実在論とのアナロジーが使われることを考えるに、美的実在論の方が主張しやすいのかもしれない。たしかに文化間に相対的でありながら実践に内在的に実在する性質として美的性質を唱えるほうが簡単なのかもしれない。ただこの実践に内在的っていう話は非常に厄介だ。実践に内在的であるという仮定に伴って、メタ倫理で動機付けの問題が議論にあがるのと同様、美的判断においても動機付けとまで言わないにしろ、当の判断が「真か偽か?」といった問題に付け加えて、その判断が「マジなのかブラフなのか?」って問題が発生するように思われる。つま俺にはそこに偽美の問題が横たわっているように思えるのだ。
その後の希薄な評価語と濃密な評価語って話は、シブレイの「価値付加的用語(evaluation-added terms)」や「記述的価値用語(descriptive merit-terms)」とかの話と似ているな。シブレイの倫理学への影響があるのかどうか気になります。