適当に読み散らしたもの

実家に帰っていると、あまり集中した読書ができなくて、とかく乱読しがち。
現代思想のパフォーマンス (光文社新書)
難波江 和英 内田 樹
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現代思想の入門かつ日常での実践を図るという意味では、以前に触れた哲学思考トレーニング (ちくま新書 (545))と対を成すが如くの新書。もとは単行本であったが新書化されたとあって、結構分厚くて読み応えはある。それぞれの思想家の「案内編」、「解説編」、「実践編」とステップアップして説明される。登場する思想家はソシュール、バルド、レヴィ=ストロースフーコーラカン、サイードと少ないものの、まあそれは分量の問題だから仕方はない。大いに疑問を感じるところは、「現代思想をツールとして使いこなす技法を実演」とうたっていながら、「実践編」で扱われるのはいわゆる文芸批評であるということだ。なんというか、要するに現代思想ってのは批評なんだなって改めて実感した皮肉な一冊。英米系哲学よりの哲学思考トレーニングが温暖化や生きる意味といったより「実践的」な話題を例にしていたのと対比的に。
まあ別に批評だからってダメなわけないけど、現代思想がそれでも批評なんだなってことについてある程度自覚的になっていることは重要だと思う。あと話題が文芸や映画に偏っていることと、選ばれた思想家に相関性があることに注意が必要だ。確かに、これらの思想家はテクスト分析するときには非常に有用だ。でもそういう分節化しやすいテクストをパラダイムとして使うことで、例えばメルロ・ポンティなんかは使いづらいからオミットされるわけだ。
とはいっても「実践編」で扱われる映画や小説の分析はそれなりに面白い。こういうのをパッとこしらえることができる人は確かにすごいと思う。こじ付けめいて見えるとこもあるけど。ただ見たことや読んだことがないテクストを例として挙げられると、見事にネタバレしてしまうから先に読んだり見たりすることを推奨する。とくに私はM.バタフライを読んだことも、映画版も見たことがなかったから、ちょっと残念だ。まあこの小説と映画、日本ではあんまり有名でないようだけど、結構面白そうだ。どこが面白そうかと言おうかとするとネタバレするので書けない。要するにポスト・コロニアルなテーマを盛り込んだサスペンスのようだ。
ゲームニクスとは何か―日本発、世界基準のものづくり法則 (幻冬舎新書 さ 3-1)
サイトウ アキヒロ
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ゲームに関して書いた新書であるということで、ちょっと読んでみたけど、かなり内容が薄かった。幻冬舎新書とかなんだから期待してはいけないとはいっても、さすがに内容がうすい。パワポでプレゼンを見せられたような印象。
まあ主張している内容自体はそんなに異論はない。確かにゲームにおいて、いかに人を熱中させるかが重要であるのはわかる。ただし熱中させるために、直感的でマニュアルを読まなくても操作できるインタフェースや演出が肝要であるという意見は賛成しかねる。著者はニンテンドウDSやipodのヒットを実例として自説を補強しているが、いささか我田引水の感が否めない。たしかに使いにくい最近のテレビのリモコンのようなインタフェースは道具としてはダメだし、直感的に操作できる製品がヒットするのはわかる。しかしながら、そのような直感的な操作性とゲームとしての魅力は必ずしも相関しない。というのは、著者の意見に従う限り、将棋のようなルールを頭で覚えて一生懸命練習しなければいけないゲームと、将棋崩しのような直感的にルールがわかって誰でもできるゲームでは、後者の方がゲームとしては優れているといわなければならないだろうから。一般的に考えて、誰も将棋崩しのほうが将棋自身よりも優れたゲームだとは言わない。では何で将棋は優れているのだろうか、と考える必要があるだろう。
まあ私のゲームに関する見解はいささか自身の美学に染まりすぎているのだろう。そして著者はおそらくエンジニアリングの観点でゲームを考えているので、上述のような価値観を持っているのだとは思う。
本とは関係ないが、ゲームについては結構いろいろ思うことが多い。まず、端的にゲームとは何かということ。この概念はウィトゲンシュタインが家族的類似性を説明する例として使っていたほど、悪名高く定義しがたいものである。しかしながら、私はそれなりの妥当性を持つゲームの定義が可能だと思っている。そしてゲームが定義されたならば、ゲームのジャンルについて洗練された分類法を考えなければならない。実は良い分類法を私は思いついている。これについてはいずれ書く。そして最後に一番重要なこととして、ゲームがこれほど我々の生活、文化の多くに見られるにも関わらず、ゲームをすることは途方もなくムダだと考えられることである。これはゲーマーの後悔として名高いパラドックスだ。もちろんパラドックスといっても論理的なものではなく、感覚的なものだ。つまりなんで我々はそんなにムダだと後で思うものに熱中するのか、という問題だ。来るべきゲームの美学はこの問題に詳細な説明を与える必要がある。おそらくそれは我々の享楽と価値のミスマッチという多くの人間の堕落的な美のあり方の一形式であると思われる。
というように、かなり話は本書とは関係なくなったけど、いずれ私自身のゲームについての考えを書きたいと思う。そのために、今ゲームをする。