エスノメソドロジー事始め

以下入門書三冊読了
エスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ (ワードマップ)
前田 泰樹
4788510626

エスノメソドロジーを学ぶ人のために
串田 秀也
4790714691

実践エスノメソドロジー入門
山崎 敬一
4641076820

エスノメソドロジーという名前を知ったのは多分、学部のときにメディア・スタディーズ関係のアンソロジーの論文か何かを読んだときだ。有名なガーフィンケルのバスでの出来事であったが、なんというかそれが学問となんの関係があったのかさっぱりだった。学部時代の私はどちらかといえばカルチュラル・スタディーズ構築主義の影響を受けながら、雑誌の言説分析によって卒論を書いたつもりだが、それ以降、社会学的な領域から離れていたが、エスノメソドロジーの紹介や日本での取り組みはたぶんその数年間でもかなり進展したようだ。おかげで入門書の類もいっぱいあって助かるが、今回ざっと読んだ感想など。
そもそもなんでエスノメソドロジーに興味を持ったのかというと、あんまり定かじゃなくて、たまたまといった感じであるが、自分の美学的な関心において有用な観点を持っていることは入門書を読んだだけでもよくわかった。美学がそもそも芸術にとどまらず、おおよそ人々の感性に興味を持つことは常識であるが、その感性とは一人の世界で作られるというよりも社会的なものであることは多くの美学者によっても指摘されているし、その点をもって社会構造的な視点を持たない伝統的な美学のイデオロギー性が攻撃されてきたことはよく知られている。ただ、社会的なものであるということをおもって、美学や感性といったものが社会的に構築された虚偽意識であるとか、イデオロギーだとかいう意見に関しては、一部で納得するもののも、それだけで我々の感性が動いているかというとそうではないという直感を常々持っていた(主にブルデューを読みながら)。確かに、西洋の芸術と美学は同じ歩調において、その産物と価値付けをある種イデオロギー的に世界に普及してきたことは間違いないんだけど、だからといって様々な文化にある様々な美的価値観や感性的な価値観がすべて支配的なイデオロギーだったり、社会的に構築された権力であったりするのはとても受け入れがたい。明らかに西洋の芸術の感性的価値観とは違った感性的な価値観があるのにもかかわらず、美学のイデオロギーを批判するものは、そのようなものを認めないか、認めても同じように支配的なイデオロギーとすることが多い。
さて前置きがながくなったが、入門書の参考。上にあげた順番で読んだのだが、どちらかといえば2番目の「学ぶ人のために」が標準的で最初に読むにはいい気がした。「ワードマップ」は取っ付きが悪いが、関係者の言によると2章を読んでから1章を読んだほうがいいとのこと。確かに1章でエスノメソドロジーの重要な概念が説明されるんだけど、どれも独特な言葉遣いでわかりづらい。やはり具体的な研究の例のほうがとっつきやすい。ただし「ワードマップ」は索引やQ&Aなどが豊富で、それらを辞書的に用いるのには有用なので手元に置いとくのも悪くない。「実践」は最初の基礎編の1から3章が非常にうまいまとめになっていて、初期のエスノメソドロジーの歴史とその方法論的発展についての概説としては一番よいかもしれない。ただ残念ながら「実践」の面が逆にあまり詳細なものではなくて、がっかりであったことである。会話分析とかビデオの分析とか個別の方法について知りたい場合、別途の入門書や教科書を読む必要がありそうだ。
最後にいろいろと面白いアイデアがあったが、中でも私の研究に直接関係ないが、美学的に興味深い例について触れておこう。

第三章 子ども/大人であること 山田富秋

子どもは大人に比べて発言権が制限されているために、ある種の相互行為戦略が必要になるというのである。この観点からすれば、有名な「子どもの物語の分析可能性について」[Sacks 1972a]という論文に出てくる、子どもが実際に作った「赤ちゃんが泣いた。お母さんが抱き上げた」という物語について、別な解釈ができるようになる。すなわち、子どもは「赤ちゃんが泣いている」というトラブルを大人に報告することによって、大人の注意を引き、その結果、一定の発言権を獲得することで、大人との会話が可能になったという解釈である。
 サックスの着想を微細な相互行為の観察に本格的に導入したのはスパイアーである。彼は、子ども特有の活動として考えられてきた「ごっこ遊び」や空想遊びについて、実際の活動をビデオに録画して詳細に分析した。さらに、子どもたちだけで行う活動だけでなく、大人と子どもが共在する場面での大人と子どもの「文化接触(culture contact)」についても詳細な観察を行った。そこから得られた大人と子どもの相互行為の一般的な特徴は次のようにまとめられる。サックスが指摘したように、子どもは大人と比較して会話に参加する権利がきわめて制限されているために、(ア)大人の注意が特に子どもに向けられている状況においては、子どもは言うべきことを大人に与えられ(例えば「ごちそうさまと言いなさい」「こんにちは、は?」)たり、子どもが言ったことが大人によってとりあげられ再度言い直され強化されたりすることがある。これに対して、(イ)複数の大人の協同活動が支配的な状況(例えば主婦同士の立ち話)では、子どもは大人たちの会話に割り込んでいくために特別な相互行為戦略を必要とするという。それは大人に即座に答えを要求する緊急性の高い質問をしたり、自分が大人の助けを必要とする状況にあることを訴えたりして、大人の救いを求める(靴が片方なくなった、持っていたお菓子がなくなった等々)といった相互行為戦略である。
(『エスノメソドロジーを学ぶ人のために』:62)

サックスとその後のスパイアーの子供に関する研究だが、これはフィクション論においてもいえることだと常々思っていた。美学においてのフィクション論の一番主流的な見方はサールの語用論的な分析のものだと思うが、あれはフィクションがウソとは違うことしか言ってなくて、それが実際に使われるときの発話の効力については何もいっていない。もちろん、フィクションをその文としての一般として語るためにそのような主張になったのはわかるが、フィクション的な文の発話は状況依存的であれ、かなりの場合ある発話者の意図の実行のための戦略的手段になっている。そして、これは小説みたいな、制度的なフィクションにもなりたつのであると思う。小説家は何も楽しませるためだけに小説を書いていないし、意図的に偽である言明をなすことにおいて相互行為の戦略を用いてることは普通なことだ。