『論理学をつくる』戸田山和久-第2章読書メモ

ここらへんから一気に抽象度が高まる。そして一般人にとって何の役に立つのかわからなくなる。しかしとりあえずそのような問いは置いといて、論理学の思考に身体的に慣れる必要がある。あと高校レベルの数学は必修だよ。

2.1自然言語から人工言語

現代の論理学は記号論理学symbolic logicと呼ばれるほどで、普通の言葉から遠ざかって独特な記号を用いる。言語には自然言語natural languageと人工言語artificial languageがあるわけだが、論理学をやるには後者のほうが適する。ちなみにコンピュータのプログラミング言語人工言語である。それこそ論理学での成果はプログラミング言語の開発などにかなり利用されてきた。そういう意味では論理学って役に立つ学問であることは理解できる。でも実際にいかに訳に立っているかを理解するのは難しい。
話はずれた。ともかく論理学は人工言語を用いたほうが良い。それはなぜか?1章の内容を簡単にまとめると

  1. 論理学の目標は命題の真偽とは別の、論証の妥当性を明確にすること
  2. そのため内容ではなく形式に注目する
  3. そのさい、論理定項に注目する

自然言語にだって文法形式grammatical formはあるので、これで論理学をやっても出来ないわけではない。しかしながら自然言語は論理形式loggical form、つまり論理的な関係性を表示するにはうまく出来ない。一例として、戸田山先生は受動態と能動態の変換における同値性の問題をあげている。「xはyにzをしている」と「yはxにzされている」という命題はたいてい同値(つまり同じことを述べており、互いにもう片方を論理的に演繹できる)であるが、自然言語の中にはこれに該当しない反例がある。戸田山先生とは違った例をオリジナルで考えてみると、例えば

すべてのオタクは何かに萌えている。
何かはすべてのオタクに萌えられている。

この二つは明らかに同値ではない。(というか量化子とかの扱いがおかしいのでこんなことが生じるのは明白だと思うけど)
要するに、自然言語では命題の論理形式が文法形式におおい隠されてしまうことがある。だから論証の妥当性を明確にするため、単純な言語をつくる。それは、論理形式が記号表現の表面に現れているような言語である。さて実際に人工言語をつくるために、自然言語を少しずつ記号化していくことにする。まず論理定項とその他の部分を分けて考える。例文を適当に作ろう

論証:オタクとサブカル非モテ
前提
太郎はオタクであるか、またはサブカルである
太郎はオタクであるならば、非モテである
太郎は非モテではない
結論
太郎はサブカルである

これを論理定項以外を記号化する

前提
PまたはQ
PならばR
Rではない
結論

このときP、Q、Rなどを単純命題simple propositionと呼び、それが論理定項(「または」とか「ではない」とか)
でくっついたのを複合命題compound propositionと呼ぶ。ただこの区別は場合によって違う。ある命題をどのように形式化して単純命題とするかは、論証によって様々である。

前提
太郎は非モテではない
結論
太郎はモテである

これを

前提
Pではない
結論
Qである

と形式化してはぜんぜん論証になっていない。これを妥当な論証にするためには違った形式化が必要である。各自、形式化してみること。
さらに論理定項も記号化してしまおう。

  • かつ(連言conjunction)・・・∧
  • または(選言disjunction)・・・∨
  • もし…ならば(条件法conditinal)・・・→
  • でない(否定negation)・・・¬

そうすると先ほどのオタクとサブカル論証は

前提
P∨Q
P→R
¬R
結論

となる。これで完全に記号化されて、形式化された。論理学はあくまでも形式だけで内容は関係ない。内容に誤りがあるからって怒っているようでは論理学できないよ!
ここでさらに用語を追加する。命題を記号化したもの(P∨Qとか)を論理式well-formed formula(略称wff)、単純命題(PとかQとか)は原子式atomic formulaと呼ぶ。そして論理定項を記号化した∨とか¬を論理結合子logical connectiveと呼ぶ。ここで日本語で書かれた命題を論理式に記号化される練習問題2が与えれるが、まあ楽勝。ただし一つだけ難しいのがある。それはこれらの記号化では、「または」と「しかし」などの接続詞を区別しないことである。オリジナルな例をあげよう。

  1. 次郎はオタクであり、モテである
  2. 次郎はオタクであるにもかかわらず、モテである
  3. 次郎はオタクのくせに、モテである

これらはP「次郎はオタクである」、Q「次郎はモテである」を単純命題したとき等しく「P∧Q」と形式化される。しかしながら、これらの日本語の文の意味は明らかに違うようである(3は差別的発言と言ってよい)。しかしながら、次郎について「新しく知った事実」という観点、つまり次郎についての「事実内容」では同じである。違うのは、文によって話し手の偏見、不快感が表現されていることだ。つまり、次郎についての情報は同じでも、話し手について相手に伝わる情報はぜんぜん違うのである。
この点で論理学とは「しかし」とか「そして」とか「にもかかわらず」とかいう接続詞の順接、逆接とかを見きわめる国語能力とは違う。一般に文章の論理とか言われるものは、この順接、逆接とかに関わることであるが、論理学で扱う論理はそれとは違う。この辺は一般の人にはなかなか理解されがたいことではあるが、おそらく論争や議論における「論理的」という言葉使いに関する様々なトラブルのもとになっているように思われる。日本の教育でこの辺をしっかりやってくれると、ブログ上でのムダな揉め事は減るのではないかと、常々感じるのであった。

さてちょっとグチっぽく脱線したが、論理学ではそういう「事実内容」以外の話し手の偏見や不快感とか感情の類はのとりあえず無視する。なぜなら、無視しても事実の真偽に関わらないからである。つまり論理学でもっとも大切な評価軸は真偽というものであって、差別的であるか否かとか、下品であるか否かとかではないのである。
さらに接続詞はいろいろあるにもかかわらず上で記号化したのはたったの4つしかないのはどうなのか、という質問があろう。確かに自然言語にはもっと色々な接続詞があるけど、これらの4つの接続詞は複合的命題を作る言葉のうちに都合のいい性質を持つ。それは真理関数的truth-functionalと呼ばれる性質であり、上記で記号化したのは真理関数的結合子なのである。真理関数的とは何か?これをうまく説明するのはなかなか厄介である。教科書的には「構成要素となる単純命題の真偽が決まれば全体の真偽が一通りに定まるような性質」と答えればよい。戸田山先生はうまい例を使って説明しているけど、めんどーだから書かない。というか、真理関数と真理値表は高校教育である程度、教えられているはずなんだけど(すくなくとも俺は習った)。まあ対偶法とかのテクニカルなことだけ教えて、それが何で成り立つかを教えている学校は少ないんだろうね。
とりあえず以下を読めばわかる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%90%86%E9%96%A2%E6%95%B0
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%90%86%E5%80%A4%E8%A1%A8