「ウィーン学団とカルナップ」(多分)第6回現代(の)美学を盛り上げる院生たちの団

今年からやってる自ら主宰の勉強会だが、最初はスタンフォードの哲学百科事典の美学に関わる項目などをやっていたが、前回の会議でコレの
哲学の歴史 11 20世紀 2 (11)
飯田 隆
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読書会をやることに決定した。美学とは直接関係ないけど、基礎教養としていわゆる「現代思想」じゃない20世紀の哲学を知ってることは非常に武器になるはずだと思う。一応、一人で数学基礎論の非常にヤヴァイとこ以外はほとんど目を通したけど、っていても流石にフレーゲとかラッセルとかから始めるのは面倒だし(まあ基本的なところは知ってるし、マニアックなところはついてくの大変だし)、だからいきなり第4章の「ウィーン学団とカルナップ」から読み始めた。
ウィーン学団とか論理実証主義ってのはまあ、美学や倫理学をやる人にとっては敵というか、なんだか分からんけど「厳しい人」たちです。とかく「形而上学は無意味!無意味!」と言ってくる論理実証主義者たちをなだめるために敵を知ることは重要だ。そういった消極的意味を以外にも、論理実証主義の歴史的な貢献(例えば論理記号の国際標準化とか)も知ることができて勉強になった。以下は適当にコメント。
シュリックについては意味の検証テーゼが有名であるが、そのオリジナルな思想は意味論としてではなく、科学理論に先立つ前提として考えられたこと。つまり世界とそれを写す科学的理論や日常的な言葉が一致する(つまりは意味を持つ)ために、所与の存在において検証されなければならないということ。ただしこのテーゼによっては、シュリック自身は実在論に積極的にコミットしない立場をとっていると書いてあるが、後半のプロトコル論争などへの介入からみるとどうもそうでない気もする。
カルナップについては、科学理論を経験所与に還元しようとして失敗した人というような安易な理解を払拭する書き方がされていて非常に勉強になった。『世界の論理的構築』では自己心理学的基底と呼ばれる個人の基本的体験から出発して、科学が描く世界を構築しようとするという計画であるが、基底として体験を選んだのは、いわゆる現象主義という立場というより、ただそれが便利だからといった理由によるものらしい。後期で提唱される「寛容の原理」でも明らかにされることは、カルナップ自身は形而上学的な実在論とかいう問題とは、関係のないレベルで自身の哲学を考えていたようだ。要するに記述される体験や理論との論理的関係に興味があるのであって、何がより基本的なものであるかについては相対主義的立場にあるようだ。そしてこのカルナップの哲学的立場は美学理論を構築したグッドマンに非常に影響を及ぼしているらしい。(参照:http://www33.ocn.ne.jp/~homosignificans/symbolnoumi/content/works/papers/semioticism.html
寛容の原理」と同じく、彼の構文論(もちろんSyntaxのことだが、どうもカルナップでは構文論って訳が一般的のようだ)でも、構文論的規則に関する言明は規範的なものではなく、一つの「提案」として位置づけているようだ。つまり例えば「神は存在する!」とか言う奴に対して、すぐに「無意味だ!」と言い返すのではなく、「その文に意味を持たす構文論的規則は何であるのか?」と問い返すのがカルナップ的な態度であろう。どうやら思っていたほどカルナップはやな奴ではないようだ(笑)。
ただこのような形而上学的な態度には相対的なカルナップの理論も、プロトコル論争や分析性論争によってその本質的なところを脅かされるようになる。両方ともかなり入り組んだ論争であるが、どうもカルナップはどちらにおいても形而上学的態度には相対的な自身の理論を譲歩しつつも、一貫して守っているようにも思える。そして、その終着点はグッドマン的な規約主義+相対主義のように思える。その違いは、カルナップにおいては認められない世界構築(制作)の方法として、グッドマンが芸術も認めている点にあるだろう。
大体の流れを掴んだものとして、次の会ではカルナップの「言語の論理的分析による形而上学の克服」というそのものズバリな論文を読もうと思う。