口は災いの元だ。
アニメ『氷菓』の第十一回を見て、米澤穂信の書きたい部分の核心に触れて、ちょっと思ったことを言ったら、それをブログに書くべきだと言われた。本当ならばこのようなテマティックな物言いはしたくないし、何よりも私は原作を読んでない。つまりこれから書くのはアニメの批評でもなく、小説の批評でもない。少なくとも憶測、もっと悪く邪推のレベルに等しいわけだ。
第十一話「愚者のエンドロール」の主題は明らかに、米澤穂信のデビュー作をもとにした5話までのストーリー、つまり「氷菓」とオーバラップする。要するに、作者の言いたいことはこれだ。
「どんな文章にもそれを書かざるをえないそれ相応の作者の事情がある。たとえ、それが凡庸な文章であっても。」
氷菓」のエピソードも「愚者のエンドロール」も、多数の人たちの意見や主張を守るために個人が犠牲となる。主人公たちが明らかにするのは、その事件であるというよりも、その犠牲となった個人の心だ。すごくナイーブな意味で心や心情としかいいようがない。もちろん、推理の過程において主人公たちは「浅はか」にも事件の真相自体も暴いてしまう。しかし、その先の作者の心に踏み込んだ瞬間、文章(ここは「テクスト」といったドライな言葉や「エクリチュール」などのような高踏な物言いより「文章」がしっくりくる)のもっているプライベートな性格に気づき、非常に後味の悪い気分になる。しかも、その文章はダジャレであったり、陳腐なミステリーであったり、凡庸極まりない。というか、この「凡庸さ」こそが、推理や詮索(というか20世紀的な文学批評)の「土足で踏み込む感」を強く演出している。一方で、主人公たちが常に作者の本心を突き止めようとする欲求の滑稽さを浮き上がらせる。
米澤穂信の小説は『さよなら妖精』しか読んだことがなかった。もちろん、『さよなら妖精』も素晴らしい小説であり、読みようによってはよりシリアスな物語であるが、どちらかといえば「戦争」という大きなテーマを扱うせいで米澤穂信の意識の高さに気づけなかった。『氷菓』はどちらかといえば面白みに欠けたり、地味な作品とされているようだが、『愚者のエンドロール』と重ねて読めば、おそらくより切実な作者の気持ちが表現されているのだろうと思ったのである。愚かにもアニメを見て。
重ね重ね書くようにこの文章は、アニメの批評でもなく、小説の批評でもない。作画や絵コンテ、背景や声優の演技に関して何ら参照していないし、小説にいたっては読んですらないのだ。ただ米澤穂信の原作を読むには十分なきっかけを持ったという感想であり、本当は書きたくなかったけど、つい第十一話を見て人に思ったことを話した結果として、書かざるをえない事情を得たのだ。これを書いている私はまったく折木奉太郎と同じ立場にいるわけで、それ相応に苦々しいんだ、まったく。
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氷菓 (角川文庫)
米澤 穂信
4044271011

愚者のエンドロール (角川文庫)
米澤 穂信 高野 音彦
404427102X