ジャンルとアイデンティティ――ポピュラー音楽学におけるジャンル論の簡単な(いい加減な)まとめ2

前回はジェイソン・トインビーポピュラー音楽をつくる―ミュージシャン・創造性・制度からジャンルと創造性についてごく簡単にまとめたが、今回はジャンルとアイデンティティについて簡単にまとめたいと思う。この問題は主にオーディエンス研究において探求されてきたので、かなりいろいろな文献とかあるんで本当に簡単にまとめたい、できれば…。

  • ジャンルとスタイル

まずこの分野での古典とも呼ぶべき文献はディック・ヘブディジのサブカルチャー―スタイルの意味するものであるだろう。ここではジャンルという言葉よりもスタイルという言葉が用いられているのだが、ジャンルとスタイルはほぼ同じものを指して使われることもある。その意味の相違は、ジャンルが主に音楽に用いられる中立的で汎用的なもの、つまりはポピュラー音楽の生産、需要、媒介のあらゆる場において使用されるのに対して、スタイルという言葉はより積極的で限定的な意味で使われる。ここではキース・ニーガスのポピュラー音楽理論入門第一章「聴衆」からの引用によって簡単に説明する。

(ヘブディジは)バラバラな要素が組み合わせられることで新しい意味を生み出し、それによって世の中に対してある特定の生き方を示威し、伝えているさまをこの概念によって表そうとしたのだ。彼はいかなるサブカルチャー集団のスタイルも、姿勢、身ごなし、動作といった身体的なものから服装、髪型、「隠語」や、音楽その他の商品の使用をともなう諸活動の「全体」として概念化した。
pp. 43

つまりジャンルではなく、スタイルと言うとき

  1. 記述的な特徴だけではなく、積極的な表現、示威を示すもの
  2. 音楽に限らず、ファッション、ライフスタイル、身体の所作といった文化全体によって示されるもの

という点が強調されていると考えて良いだろう。
ヘブディジがスタイルという言葉で説明したサブカルチャー理論は、「若者たちが既存のモノを積極的に使い、(商品にはひとつの限られた用途しかないとする考え方とは対照的に)そうした使い古された商品に、新しい意味を与えること」であり、これはジャンルを消費者のセグメント分けの道具としてしか見なさない産業論的立場(次回扱う「ジャンルと音楽産業」に関わる)と真っ向から対立した見方である。このようなスタイルという視点を音楽のジャンルにも取り入れるなら、音楽のジャンルとは既存の音楽的要素*1を「流用(appropriation)」して生み出される新たな意味であると言えよう。この考え方はトインビーの「社会的作者」という概念にも適用するものであり、ポピュラー音楽の創造性にも関わる議論を生み出すであろう。

  • 構造的相同性(structural homology)

さてこのようなスタイルという視点から音楽ジャンルを見たとき、そのスタイルにこだわるオーディエンスとアーティストとその当の音楽ジャンルの記述的な特徴との間には、「相同性」が存在すると言うことがサブカルチャー研究の間では言われてきた。つまり、あるスタイルを構成するファッションやダンス、身のこなし、そして音楽的な特徴といったあらゆる部分的要素がひとつにまとまることで、サブカルチャー集団の「生き方全体」を表している、という考え方である。つまり音楽ジャンルとして認識されるスタイルの一要素は、ある共同体の「生き方全体」、つまりはアイデンティティを表象するものとなるのである。このような特徴ゆえに、音楽のジャンルは時としてある人々にとっての「生き方」と見なされるようなことが多い。このような純粋に音楽的な特徴を超え出たものを示すジャンルという言葉の使い方は(例えば「矢沢の生き方そのものがロックンロールだよね」って言ったように)、サブカルチャー理論で言うスタイルと相違はないのである。ただし見逃してはならないのは、すべての音楽ジャンルがスタイルとして見なされるわけではなく、ジャンルの中には産業側が規定したり*2、実践の外部の制度が規定したり*3、するものがあるということだ。
このように相同性理論において、ジャンル=スタイルはある特定の共同体のアイデンティティを表象するものとして理解されるゆえに、その純粋に記述的な音楽的特徴も規範的、もしくは価値的なものと見なされる傾向を示す。パンク・ロックのざらついたギター・ノイズは既存の社会体制への反抗と見なされ、フリー・ジャズの完全なるインプロヴィゼーションは人種差別からの「解放」訴えていることと見なされる。このような相同性理論は、社会反映論や産業、技術決定論を超え出るものを提起していることは評価されてきたが、その共同体と実践の間に強固な関係を見出す点で一面的だという批判に晒されてきたのである。その中にはフェミニズム的視点を導入したマクロビーとガーバー、サブカルチャー理論のエリート主義を批判したクラーク、グロスバーグ、ラング、ソートンや、サブカルチャーに変わる「シーン」という概念を提起したストローなど多数の研究がある。そこでは「共同体」、「アイデンティティ」といった概念をそもそもどのように捉えるべきなのかという本質的な問題が横たわっている。

ある音楽とある特定のアイデンティティエスニシティー、国籍、ジェンダーセクシャリティ…)に深い関わりがあることは一般に認められてきた。しかしながら、アイデンティティ研究の内部でこのような社会的なアイデンティティの不変性や首尾一貫性が疑問視されるにつれて、ある社会集団と特定の音楽の集合、つまりはジャンルの間に確固たる繋がりがあるのかは批判的に見直されることになってきた。主な議論の流れは、アイデンティティ研究における本質主義(essentialism)から構築主義(constructionism)、さらにはその乗り越えという考え方に平行している。
ポピュラー音楽において本質主義的立場から主張される一番顕著なジャンルとしては「黒人音楽(ブラック・ミュージック)」という言葉が上げられる。この「ブラック」といった言葉には、「リズミカルでグルーヴがある」といった音楽的で記述的な特徴と共に「黒人による」といった非音楽的であり特定の社会集団を指し示す意味が含まれており(そしてより話をややこしくさせると価値的な含意を強く含まされる言葉でもある)、そのつながりが本質的なものとして描かれる傾向が多い。そのような立場としてニーガスはサイモン・フリスを批判して以下のように説明する。

フリスが利用した二分法は、二つの「本質主義」が一緒くたになっている。ひとつは社会・生物学的なそれで、もうひとつは音楽的なそれだ。この二元論は、まず第一に、黒人は白人より「自然」で、肉体的で、衝動的であり、白人は黒人より社会的な約束ごとに制約を受けている(中略)第二の点は、肉体的な自発性という考え方とも繋がってくるのだが、黒い音楽が、ある種の本質的な音楽的特徴――作曲されたのではなく、即興され、自発的に創造された――ものとして、定義されたことである。
ポピュラー音楽理論入門 pp. 157

このような黒人音楽というカテゴリー=ジャンルについて、より批判的にアプローチしたのはフィリップ・タグである。彼は辞書的な意味において「黒」という言葉が音楽を本質的に形容することはないと主張する。先に述べた音楽における「ブラック」といった言葉は音楽の記述的な意味は、黒とみなされる人々によって作られた音楽において見出せる記述的な特徴なのである。そしてタグによれば、黒人音楽の特徴として言われる多くのもの、シンコペーションやブルー・ノートといったものは他の音楽においても頻繁に見られるのである。このような議論からは当然、人種的な言葉、さらには社会的アイデンティティによって示される、黒人音楽、ゲイ・ディスコ、アイリッシュ・トラッドといったようなジャンルの構築主義的な理解がなされることになる。
だが同時に、黒人音楽という言葉を、そのような人種に関する言葉によって規定されるという苦悩と戦っているミュージシャンやオーディエンス自らが使用するという事実を考えると、そのようなジャンルが存在しないと言うことはできないであろう。この観点から、ポール・ギルロイは「非本質主義(non essentialism)」という立場を主張する。彼は、ある主体と本質的に結びついたアイデンティティがあるという本質主義と、そのような本質的なアイデンティティを批判してすべてを文化的な構築とみなす構築主義の間を舵取りすることで、ギルロイは「ブラック・アトランティック」におけるディアスポラと、リロイ・ジョーンズが黒人文化について主張した「変わり行く同じもの(changing same)」いう概念による黒人音楽を理解するべきだと主張する。前者については最近、邦訳が出た彼のブラック・アトランティック―近代性と二重意識で詳しく論じられている。
このようなアイデンティティ概念の本質主義構築主義の間の綱引きは、そのポピュラー音楽を取り巻く他の文脈においても問題とされ得る。特に聴衆と産業のどちらに重点を置くかによって、当の音楽ジャンルへのアイデンティティの帰属を搾取とみなすか、否かという問題が横たわっているのである。これに対して、ギルロイとは別の形でトインビーはベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」の概念を援用して次のように主張することで、その間を見極めている。

音楽の中に共通のアイデンティティを見出したいという欲望を商業的に搾取=利用することにより、音楽作業は音楽的共同体の構築を促成してきたのではないか、というのが私の議論である。つまり、この文脈において重要な点は、共同体というものが完全に捏造されたものでも、完全に真正なものでもないということだ。むしろそれは、技術的発展との折衝や、そうした発展の予期不能な暴走を通して共同体のあり方が形をなすにつれ、その両方の側面を帯びてゆくのである。
ポピュラー音楽をつくる―ミュージシャン・創造性・制度 pp. 283

この点において音楽ジャンルとアイデンティティの問題は、アーティストを含んだ共同体としてのオーディエンス研究を超えた産業論と結びつく。重要なことはあるスタイル=ジャンルと、それによって表象されるアイデンティティは本質的に結びついているのでもなく、そのようなアイデンティティとスタイル=ジャンルの関係がまったく虚偽であるわけでもない。そしてこの関係は、そのアイデンティティの集団とスタイル=ジャンルの相同性があるという以上に複雑なものであり、社会的な相互作用、相互関係、相互媒介において理解すべきなのである。
さらに以上のスタイル=ジャンルとアイデンティティの議論はジェンダーセクシャリティーといった他の社会的なアイデンティティにおいても広範な議論がなされている。ここでもやはり本質主義から構築主義を抜けて、非本質主義といった流れが見られるが今回はちょっと長くなったのでココまでにさせていただく。

*1:音楽的要素を狭義に捉えることなく、広義に捉えれば、ジャンルには実際にサウンドとして知覚できるものを超えて、アーティストのファッションやライブでの行為、メディアでの身のこなしをも含みうるものと考えられる。実際にそのような「非音楽的」な要素がジャンルの名前に結晶化することはシューゲイザーと呼ばれるジャンルなどを考えてみればよい。

*2:例えばAOR

*3:民族音楽やクラッシク音楽におけるジャンルなどはそうであろう。この場合、ジャンルとはほぼ様式を表すと言っていいだろう。