家庭用据置ゲーム機の氾濫がもたらすもの

先日東京の教育委員たちと懇談した折、委員の一人が最近久し振りにヨーロッパに長期滞在したが気づいて観察してみたらどの国においても中年オタクたちで家庭用据置ゲーム機を持っているオタクを全く見掛けなかったと報告した。ネットの知人に質(ただ)したら、価格からしても、その料金からしてもオタクが与えられる賃金ではまかなえるものではなく、当たり前のことだといわれたそうな。この挿話は私にとってはきわめて印象的だった。

日本のオタクたちがなぜ家庭用据置ゲーム機などという道具に偏執するのかはある視点からの分析が必要だろうが、さらに、家庭用据置ゲーム機の普遍による娯楽性が日本の社会に何をもたらしたかを考えるのも、今日の日本社会の歪(ゆが)み、歪(ひず)みを解明するに大事な手がかりと思われる。

PS3とかWiiといった現代文明の所産はゲームによる娯楽性の便宜の末に、ゲーム脳の氾濫(はんらん)をもたらしたといえる。その結果多くの人間たちは大脳生理学の公理になぞらえていえば、実がなりすぎて上部の大脳が肥大しすぎ肝心の幹である脳幹の発育が追いつかず、嵐が来たら上の重みに耐えきれず簡単に折れてしまうリンゴの木のように、過剰な情報を収(しま)いきれずに人間としての本質を失いつつあるような気がしてならない。

オタクたちの所持している家庭用据置ゲーム機には規制の無いまま、オンラインゲームの嗜好(しこう)に応えて容易に多額の金をRMTする手引きまでがネット上に盛り込まれている。それらの情報は風俗の紊乱(びんらん)にとどまらず、若い世代の人間たちの人間としての本質を狂わせてしまいかねない。こうした状況をエロゲに関していえば「画像はコンプリートできるけれど、心が手に入らない」といった根源的な喪失を生み出してしまう。今時の女の子たちが「腐女子」などと呼ばれるような兆候は、喪失以外の何ものでもありはしない。これはオタクたちだけではなしに、総じて家庭用据置ゲーム機の氾濫に巻き込まれている人間たちを本質的に衰弱させてしまう。

ある哲学者はそれを人間の本質的貧困化といったが、要するに、個人が行うべき情報の整理や分析評価を、それがあまりに過剰なためにその作業そのものをも他の情報に頼るという現象だ。その表象の最たるものは現代のブロガーのエントリの内容で、そのほとんどはブログの主体者たるブロガー自身の取材、判断、評価に依らず、あるあてがいぶちの情報に依るだけのことがほとんどだ。

私は最近あるエントリに関して一方的な中傷のブクマに晒(さら)されたが、問題なのは確たる情報の精査や取材もせず、(私が直接メールを受けたのはただ一者のみ)ことの真意の曖昧(あいまい)なままに、ただセンセイショナルなブクマを行ってしまうブロガーの姿勢で、この件でははてなに2つの警告を行ったが、それで追いつく話ではない。現代にWEB2.0がいかに猖獗(しょうけつ)していようと、その実質はいかにも軽く薄く危ういものでしかない。

主都大学東京純教授の宮台氏が面白い分析をしていたが、そもそもゲームなるものは現実を希薄にしてしまう。第一に、ゲームはリアルを難しくしてしまう。昔はリアルだらけだったからこそ夢を追い試行錯誤があった。ゲームに依って、「どうせリアルでは非モテだから」という容易な断念はオタクの性力を減退させてしまう、と。

第二は、ゲームは規範の輪郭を曖昧にしてしまう、と。昔は良いこと悪いことの境目がはっきりしていたが、今は昔は有り得なかったゲームによって、例えばGTAに関していえば、車を盗んで街中を走り回り、犯罪・殺人を中心に何でもやりたい放題などという風俗が晒しだされ禁忌なるものが消滅してしまい、それを侵して超えるといった姿勢や行為の濃度が希薄となり人間の活力の低減に繋(つな)がっていく。

第三には、現実を入れ替え可能にする、と。かけ替えない体験だと思っていたことが、「それなんてエロゲ?」といなされ、素晴らしい女性だと思っていたのに「二次元にはかなわない」と水をかけられてしまう。

つまり自分の感性や情念にのっとった決断や選択の、自らの人生における比重がごく軽いものにされてしまうことで、生きるということの中での、人間としての積極性が殺(そ)がれてしまう。これは人間全体にとっての損失以外の何ものでもありはしない。

生きていく中での人生の不可知さ、未知なるものへの恐れや憧(あこが)れは、生きて自分にしか出来ないかも知れぬ試みを手掛けることでの満足、充実のよすがの筈(はず)だが、それがはなから疎外されていてはなべて「ニュータイプ」の登場の余地などなくなってしまう。人生そのものがゲームになってしまえば生きることそのものが無意味にさえ感じられてしまうだろうに。

最近のブログのほとんどが時流を読んでの一種のマーケッティングに依っているのも、その証しかも知れない。

人間はさまざまな体験によって育(はぐく)まれ成長し、それぞれの個性、感性に依る試みを成就することで社会に対する己の人生の意味合いを感知し、さらなる生きがいを知り、新しい意欲を造成していくものだが、家庭用据置ゲーム機の氾濫がヴァーチャル・リアリティで社会を覆えば社会そのものが衰退していくのは道理だろう。

昔アレクサンダーやオグバーン、フロムといった社会心理学者たちが指摘した文化遅滞(カルチュラル・ラグ)なる公式、人間自身が開発し推進した新しい科学技術体系が逆に人間たちを大きく規制し、それに対する人間の適確な順応が有り得ぬ時、社会の崩壊さえが有り得るという警告に、真摯(しんし)に耳を傾けなくてはならぬ時代に至ったような気がしてならない。

http://www.sensenfukoku.net/mailmagazine/no54.html

ってか物書きってレベルじゃねえぞ!Wii欲しい!