マンガ表現と絵画表現における述語の不一致について

なんかいろんなとこで盛り上がっているマンガにおける「絵の上手さ」に関する議論なんですが、基本的にヴィジュアルなカルチャーに疎いティーンネイジャーであった俺としては何が上手下手の基準かはよくわからんですが、そこで使用される言葉に関して分析的に考えると以下のことが言えると思った次第であります。
まずこれはまあ自明だとみなさんも考えているとは思いますが。

  • 「絵がうまい(下手だ)」という表現は様々な文脈によってその意味するところが違う。

よって

  • その文脈や判断基準を説明せずに「絵が上手い(下手だ)」と言うことは記述的にはほとんど意味がない。

だからこそ、あるマンガの絵を上手いとか下手とかいうだけの論争(けんか?)は不毛であって、「これこれの文脈において上手い」とか「これこれの基準によって下手だ」とか言わなければ議論になりません。つまり、端的に「絵が上手い(下手だ)」と言うことは、自らの価値判断を表明しただけであり、その価値判断を説明していないのであって、記述的にはほとんど意味がないのです。しかし、ここから「絵が上手い(下手だ)」という言うことはまったくもって意味がないと早合点してはいけません。それは次のことが言えるからです。

  • 「絵が上手い(下手だ)」と言うことは記述的にはほとんど意味はないが、価値判断を成したという遂行的な側面では意味がある。

ここは非常に厄介で難しい問題ですが、少なくとも「絵が上手い(下手だ)」と言った人は、その発言によりその人の価値判断を表明しているわけであるので、「絵が上手い(下手だ)」といった理由であるマンガの作品を勧めたり、読むように命令したりする可能性を秘めています。そういった意味で「絵が上手い(下手だ)」といった美的判断にも、ある意味で倫理学者のヘアが言うような指令性が含まれることはあるでしょう。
さてここで「絵が上手い(下手だ)」という表現の役割を以上のように分析しましたが、このように発言するだけでは他人と有意義な議論はできません。それはただ(その判断基準や文脈はともかく)、この作品を読めとか、あの作品は読まなくていいとか、そういったなんらかの指令を発しているか、ただなんとなく呟いただけとであるからです。では有意義な議論をするためにはどうすればいいでしょうか。
それはそのような勧めや指令、命令といったことに従うに値するような判断基準や文脈を述べる必要があります。つまり「これこれの点でこの絵は上手い」とか「これこれの文脈では彼の絵は下手である」といった風に。そしておそらくそのような「これこれの点で」とか「これこれの文脈で」といった表現は記述的な意味を含んでいるはずです(価値語だけで構成される判断基準というものは判断基準としては有効ではないでしょう)。
そのような判断基準や文脈の説明は、「彼のシャープな線の使い方が、人物の感情描写に適しているという点で絵が上手い」といった風な個人的なものもあるでしょうが、多くの場合はすでに共通了解が得られているような言葉によって表現します。例えば「デッサンが上手い」といった風に。なぜなら、この様に発言する方が個人的な説明よりも言葉の数としても経済的で、前提とされる共通了解に訴えることで有効であるからです。(この際「デッサン」という言葉の文脈などについてはとりあえず置いておく。その言葉について知りたければ美術教育の場でされる指導について調べればよいだろう。)
ところがここでヤヤコシイ問題が生じます。例えば、私があるマンガの表現に対して「デッサンが上手い」といったとき、私はそのマンガの表現に対していかなる価値判断をしたのでしょうか?「デッサンが上手い」から良いマンガであり、君も読むべきだと言っているのか、それとも「デッサンが上手い」だけで、マンガの表現としてはつまらないといっているのか?「デッサン」という言葉を記述的な意味の限りで捉える以上、そこには価値判断を示す要素がないのです。「水はH2Oである」といった表現と同じく、厳密に記述的な言葉は価値判断を示しません。
これはある種、言葉の記述性と指令性のアンチノミーのようなものでしょう。完全に記述的な言葉は指令性を持たず、完全に指令的な言葉は記述性を持たない。何かに批評的発言をするということは、その本質として価値判断を下すということであります。よって批評的発言は完全に記述的言葉によっては達成されえず、指令的な言葉を含む必要があります。一方で、完全に指令的な言葉、要するに「これこれせよ!」とは何らそれに従う契機も与えられず、記述的内容も持っていません。また「それに従う契機」として有効なものは記述的なものであるでしょう。
ちょっと話が難しくなりすぎたので、今までのところを確認すると、要するに何らかに対する美的な判断をするためには、記述性と指令性を併せ持った表現をする必要があるということです。長くなったし、自分でもちょっといろいろ考えが湧いてきたので次また書くかもしれません。この先考える必要があることとしては

  • 言葉の本質的な指令性、または価値性とその変化および「〜〜は死んだ」という表現について
  • 美的判断を表す言葉に指令性という概念を適用する是非、つまりは美的判断と道徳的判断の違いについて