セジウィっクは断念して・・・

ムずいよやはし、そもそもテキスト分析の対象になる『ビリー・バッド』も『ドリアン・グレイの肖像』も読んでないからね。
ということで今度も積読状態にあった

を読んでいる。とりあえず、雑誌「キング」と講談社を巡る出版業界の言説空間を分析した第Ⅰ部「講談社文化と大衆的公共圏」を読了。以下メモ
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世界史的「戦後」、つまりは第一次大戦後、出版業界は大いに成長した。それは大戦中に国内のインク、製紙産業の競争力が格段に飛躍したことと、欧米において普通選挙が実現し、市民的公共圏から国民的公共圏と変わり、政治の舞台に「大衆」が生まれたことによる。
このような背景により、老若男女、あらゆる階級に読まれるべき総合雑誌として創刊され、後の戦争期において国家の総動員を支持する国民雑誌「キング」は生まれた。
当時の婦人雑誌のスタイルを踏襲していた「キング」という大衆雑誌の登場は、大衆文学/純文学という二項対立同様に、「送り手コード」よりも「受け手コード」を重要視することを特徴としている。その前段階が婦人雑誌であったことは、大宅壮一が婦人を「文化的植民地」として捉えることから説明される。つまり、これまで活字メディアに触れることのなかった人々に受ける雑誌であるためには、婦人雑誌(どうように植民地で売れる商品)のような実用的で廉価、効用の範囲が広い必要があったのである。
しかし、雑誌「キング」の読者層を調べてみると決して「女子供」ばかりではなく、帝大生のようなエリートも多くいたことがわかってくる。このことにより、これまで無知な大衆を煽動し戦争協力をした「講談社文化」、知識人と大衆の断然故に戦争を止めることのできなかった「岩波文化」、と語られることが多かった、講談社/岩波文化という二項対立図式が再考される。つまり、

『キング』を愛読した労働者、農民、女性が『思想』や『科学』を読まなかったことと、岩波文庫を購入した学生・知識人が同時に『キング』も読んだこと

という非対称性が重要であり、女性、少年、大衆雑誌をもたない岩波文化は、それらの「教化メディア」である講談社文化と補完的関係にあった。
そして、大衆の教化メディアとしての講談社文化に一番批判的であったのは、別の教化を行なうプロレタリア文化であった。戦前のプロレタリア文化には、とりわけ国家権力による弾圧と検閲の悲劇としての言論史というイメージが強いが、上述した第一次大戦後の出版業界の躍進時においては、左翼思想ブームが存在したという事実がある。そして、「大衆とともに」をスローガンとするプロレタリア文化にとって、少年、女性など広く大衆をとりこんだ講談社文化とその雑誌「キング」をいかに評価するかという点で、「芸術大衆化」論争というものが起こっている。つまり、大衆に広く共産主義思想を広めるには、小林多喜二の『蟹工船』のような難しい文学ではなく、キングに載ってるようなわかりやすい大衆文学が必要であるという主張を巡っての論争である。しかし、閉鎖的なプロレタリア公共圏内部の政治的立場の不毛な論争が続くばかりで、時代はいつしか講談社文化の制する国民的公共圏とともに戦争へと向かっていった。
そのような時局に対し、多くの派閥を超えた社会主義者が反ファシズムによる大同一致をはかり、「左翼キング」といえるような反ファシズム大衆雑誌「労働雑誌」を創刊するも発行部数は伸びることが無かった。これは、彼らが「キング」というメディア特性を読み誤っていたことによるもので、常に現状政権を支持する「キング」はほとんどの場合、読者の関心を主義主張にではなく、実益娯楽に導いていた。
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以上メモ的要約
公共圏とか公共性とか言う言葉がなんども出てくるのだが、これは院試前に友人達と「ハーバーマスの公共圏ってなに?」とかいってたアレのことなのか?まあ文の意味はわかるんだが、ハーバーマスの公共圏とかはくわしいことしらんが、読んでみる必要があるのか?
そんなこといえば、そもそもフーコーも読まずに言説、言説って言ってるのもまずいのか・・・やれやれ
あと大宅文庫でお世話になった大宅壮一であるが、この人なかなか凄い人で、ある意味日本のカルスタ、メディアスタディーズの元祖なんじゃないかな。「岩波文化」を「アカデミズム教」と分析しているところらへんブルデューのようだなとも思った。
この第Ⅰ部は「キング」の内容分析は無く、「キング」を巡る言論空間の分析を、当時の批評などを手がかりに再構築しているのだけど、俺も見習ってROと音楽雑誌、大衆文化批評の言論空間の分析をまずやるべきだなと再認しました。

あと気になった参考文献をあげとこ