続き

91年2月のMMに『どう受けとる?英ロック新世代のメッセージ』というストーン・ロージス以降の英ロックシーンについての小野島大久保憲司の対談があり、マンチェをどう捉えるかという点でおもしろい。
基本的には、イマイチ、マンチェがわからない小野島に対し、現場に詳しいカメラマンである久保がこたえるというスタイル。
小野島の論点は大きくまとめると二つ

  • ストーン・ロージス以降のマンチェスター・ムーブメントは正しく日本に伝わっていない。
  • 「観客とアーティストを対等な位置におく」のは結局幻想であって、それよりも個のメッセージを主張するほうが、ロックなのではないか?

小野島は95年のMM1月のロージス2nd発表に際して書いているとおり、基本的にアシッド・ハウスとレイヴの影響下にあったマンチェスター・ムーブメントの、レイヴ的な雰囲気を作り上げ「ライブにおいて観客とアーティストを対等な位置で一体となって楽しむ(もちろんドラッグの力も借りて)」という価値を認め、その点でロージスを評価している。
しかし、前者の批判によれば、日本でのロージス人気、マンチェとはそのような彼らの本質的な部分を欠いたファッション的なものではないかというわけである。
また、後者の批判は、そのようなマンチェのイデオロギー以前に、そもそもがロックにおいて観客とアーティストの一体感とは、あくまでも幻想によってのみ成り立つという、根本的批判である。
これに対するROのローゼス、マンチェ受容はまだ詳しく調べてないのでわからないが、ここで小野島の日本における洋楽受容問題において、「正しさ」が強調されるのは注目に値する。これはMM、ひいては中村とうように顕著に現れる、本質主義的ポピュラー音楽観の類型のようだ。つまり、大衆によって作られた音楽は、それを生み出す地場や人について知らなければ、「正しく」理解できないというものである。
おそらく、RO的ロック観にとってはそんなことはどうでもいいことになるだろう。ROにとってロックとは、それによっていかに妄想を膨らませ快楽を得るかが大きく、多くのレビューでは私的な体験に結びつけることによって、その価値を語るのである。
ところが、実はそんな簡単ではなく、ROにはインタビュー記事/投稿記事という二つの音楽受容レベルがあるように思われる。多くのROのインタビューは、MMと同様に、現場での雰囲気や音楽の価値を伝えようとしているのであるが、多くの投稿記事に現れるのは結局のところほとんどが、私的な体験においてこのアーティストがいかに重要か、を語る主観による印象批評である。
そこで、小野島による後者の批判に対し考えてみる。ROにおいてもインタビューなどの一次的な記事により、マンチェの意味とは「観客とアーティストを対等な位置におく」新しいロックであることは伝わるのであるが、投稿記事という二次的な記事においては、一次的な記事は誤読または、積極的に読み直され、結果的にはこれまでのロックと同じ価値を見出すのではないだろうが?つまりROでは、「観客とアーティストを対等な位置におく」というメッセージは、「「観客とアーティストを対等な位置におく」という個のメッセージ」というメッセージに読み替えられるのではないだろうか?
以上、あんまりまとまらない言葉で適当に書いたので良くわかんないかもしれませんが、ある種MMにおいては本質主義的な音楽観が強いのに対し、ROにおいてはギルロイなんかがいっているような戦略的本質主義的な音楽観があるのではないかということ。まあ意識的にやってるというよりも、無意識的に音楽の意味を本質的な形に構築しているというか、結局は「俺がイイと思うからイイんだー」(渋谷陽一は戦略的にやっていると思うが、その他渋谷に影響された人たちは無自覚なのか戦略なのかわかりませんが)という批評になる。
こういった批評方法においては、元の音楽にほとんど意味が不在なダイナソーJrなども「殺伐」というタームによって意味あるものとして受容されている気がする。