飯食う音楽

いやあ、そんな感じで最近ではジャズをかけるラーメン屋は非常に多いのでありますが、昔から日本のジャズファンとかにはどう思えるのでしょうね。珈琲一杯で粘りつづけた筋金入りのモダンジャズのファンに言わせると「邪道だ!」ってことになりそうですが、ここでは現代文化における音楽と飲食について、最近考えていたことをつらつら。
まず何よりも思うのは、吉野家なんかでかかっているJ−POPとかです。あれは、一体なんのためにかかってんのか?一人で牛丼食っているとき考えてみたが、あの音楽を楽しんでいる人はいないのではないかと思うわけです。じゃあ、なんでかかっているのか?思いつく理由は二つ

  • 店の回転率を上げるため、積極的な嫌がらせとしてかけてる。
  • レコード会社側が店でかけることを奨励するか、もしくは広告費を払ってかけさせている。

どちらにしても言えることは、「我々は280円という低価格で牛丼を食べるために、その対価として音楽的苦痛を与えられている。」ということではなかろうか?たしかに、ヒット曲や主流な音楽が流れるわけだから、多くの人がそれを楽しんでるとも言えなくはないが、むしろ、そういう場で何回も流されるから、ヒットするのではないだろうか?なぜなら、J−POPがボサノバとかに変わって文句を言うやつはいないし、松浦あやを聴く為に牛丼食うやつはいないだろう。
私はなにも「大衆の音楽は資本主義社会によってコントロールされている。」といった古典的文化産業論を主張するつもりはない。ただ、牛丼屋でJ−POPが流れるというそもそも不自然なことが、いつのまにかあたりまえになっていることを説明したいだけである。逆に言えば、J−POPに慣れ親しんだ者にとっては、牛丼屋での音楽享受をより楽しめるかもしれないということもありえる。音楽学という学問にとっては殊更周縁である、飲食業と音楽文化のつながりといった問題も、現代という状況において考えてみる必要は多いにありうる。そういった意味で牛丼屋の音楽は私に疑問を投げかけるのである。