フジロックの真正性

演習での論文紹介。
東谷護編『ポピュラー音楽へのまなざし』
http://home.ccb.shukutoku.ac.jp/faculty/abek/research/popular.html

の第5章岡田宏介「イベントの成立、ポピュラー文化の生産」を紹介。
文章、語句の使い方がおかしいと言われる。そりゃ昨日がぜ気味の頭で原稿書いたからそうだと思いながらも反省。これからはキーとなる言葉をいちおう自分なりに定義しながら書こう。今回の場合、「主体化」、「卓越化」など。

この論文は主に、フジロックにおいて音楽誌側と産業側がその存続のため、オーディエンスに自己管理などのフェスでのマナー(ゴミは分別、自分の体は自分で守るなど)を伝え、オーディエンス側もそれを守ることで、他の管理型コンサート(本文では加藤登紀子のコンサートが例)から自らを卓越化した存在として主体化するプロセスが描かれる。
 「加藤登紀子のコンサートの客も主体化してるのではないか」とかいう批判を受けたが、そりゃそうでもあり、そうでもない。観察者の視点に立てば、どのコンサート、イベントのオーディエンスもそれに参加するのは自分で選んでる、って産業側から思わされているようなものだが、フジロックに参加するのは、「俺はあんな管理主義なイベントはまっぴらごめんだ」という卓越化意織と、産業側の意図が合致していることが重用なのであろう。
 まあ、実際にはフジロックといってもその中の自由は管理された自由で(俺は昨年バイトで管理する側であったのだが)、イギーポップのステージで観客が乱入する(俺も乱入した当事者だった)のも仕組まれたものであったし。それでも、イギーと肩を並べているその瞬間にロックの価値は見出されるし、ウッドストック的な伝説を味わえれる。そして、我々はウッドストックのようにつかの間夢を一瞬で終わらせることにせず、毎年の恒例の行事とすることを選んだのだと思う。それがロックの飼いならしと言われればそうかもしれないが、それがどうしたってことだな。それでも俺らはロックを楽しんでる。

ってな具合でやはりフジロックは他のフェスにないもんもあるような気がします。
やっぱ苗場って場所がいいよな。ビール飲んで芝生寝転んで音楽聴く。