婉曲語法Euphemism――『哲学辞典』W. V. クワイン(pp. 97-100)

婉曲語法は、意地悪で、もともとおだやかなものだった言葉を、耳障りなものにする力をもっている。たとえば、人間についていうugly(醜い)は、homely(気どらない)、つまり「普通の」あるいは「別に目立たない」という意味の言葉にやわらげられた。しかし、今となっては、少なくとも気どらない話し方では、homelyはuglyとまったく同じく不愉快な言葉になっている。(…)
hussy(淫乱な女)の芳しくない響きも、婉曲語法からきたのである。hussyは、housewife(主婦)を縮めた言葉であり、主婦が、夫の留守中に氷を届けにきた男やセールスマンと浮気をすることをほのめかす意味などまったくなかったのである。idiot(白痴)にも似たような敬意がある。(…)
homely, plain, ornery, hussyその他は、望ましくないものとして認められている性質を指すための婉曲語法として登場した。こういう性質の是認を意味するのではなく、指示のどぎつさをやわらげただけである。そういう性質をいうための婉曲語法を探すということ自体、そういう性質をいかがわしいものと認めていることを示している。軽蔑を、たとえば社会学に対して示す婉曲語法の一つは、「“社会学"を婉曲語法で呼ぶときのいい名前は何でしょう」ときくことである。「社会学のどこがいけないんです」と聞き返すのが、自然な反応であろう。

哲学事典―AからZの定義集 (ちくま学芸文庫)
Willard Van Orman Quine 吉田 夏彦 野崎 昭弘
448009055X

差別用語や侮辱表現の問題について、聡明な人なら既に気付いていることだが、それらはあくまでも言説レベルの問題であって、単語や表現のレベルの問題ではないということは重要だ。ある単語、ある表現はしかじかの条件においては不適切で差別的なものになるであろうし、別の条件ではまっとうなものである。そういう意味ではいわゆる「言葉狩り」が狂信的な行為であることはうなづけるであろう。言葉の意味を語源に辿ると、それが不適切であるか適切であるかは、到底判別不能なものになるのが普通である。しかし、だからといっていつ何時でもどのような表現も認められるべきだというのはおかしな話である。
ある語の使用は、当該文化や文脈において解釈される。一般的に侮辱的、差別的だと思われる表現を、その侮辱的、差別的な意味合いを消去して使用したいと思うものは、それがそのような邪悪な意図から切り離されていることを受け手側にカンジさせるようなメタ的説明を必要とする。もしくは、高度に形式化された表現は、その発話の差別的、侮辱的要素に対するコミットメントをキャンセルさせる効果がある。
そのため詩における形式は重要であり、正しい音韻、ライムは言説の直接性を穏やかにする。ラップなどの表現において侮辱的、差別的用語がある一定度合い許されるのは、その形式の巧みさゆえである。形式を洗練できないものには、その表現の差別的要素がキャンセル可能であるなどとは到底いえないのである。ここにモラリティに対する一定の美的な自律が存在し、素晴らしい美的形式においては差別的、侮辱的表現が許される場合があることを説明する。逆にいうと、その不道徳ゆえに批判される表現は、美的形式において劣っている場合がほとんである。空に文字を描くことも、もっと洗練されたものであれば、許されたかもしれない。