適当に読んだ本

硬軟あるけど、とりあえずメモっとく。
行為と合理性 (ジャン・ニコ講義セレクション 3) (ジャン・ニコ講義セレクション 3) (ジャン・ニコ講義セレクション 3)
ジョン R.サール 塩野 直之
4326199598

現在、存命中の大哲学者サールの訳書の新刊。基本的には意思決定とその理由に関する議論であり、サールの哲学的体系のほぼ全体を駆使しつつ、自由意志に関する哲学上、もっともハードな問題に立ち向かう。しかしながら、その議論はかなり複雑で難しい。読むのに苦労した。でもサールは実のところ凄く単純なことを言っているのかもしれない。人間は「約束」とか「主張」とかの言語行為をした時点で、すでに何らかの義務などを果たす状況に立たされていると、サールはかなりあっさりと「である」から「べし」を導いてならないというヒュームの原則を廃棄する。自由意志の条件として理由と行為の間に「飛躍」があるというのは、テッド・ホンデリックの自由意志論について知ったとき、うすうす感じていたけどやっぱりそうだったんだと思った。しかし、そうすると自由意志における決定がなんだか、いい加減なもののような気がして困る。またサールもホンデリックと同様、あるレベルでは両立可能説(自由意志と決定論は両立するよ)をとるんだけど、それでも自由意志が幻想である可能性自体を反駁することはできていない。よくある量子レベルの非決定性から自由意志を導くという路線がかなり怪しいから、サールはシステム因果という変な概念を使って説明している。なんつーかそれは形而上学的にもどうなんやろ。両立説を擁護するのに、新たな因果関係を持ち出すのは結構な代償な気がする。俺、めんどーだから最近は自由意志が幻想であることを大体において認めている。だからって何も生活のレベルでは変わらないんだけど。この本についてはまたいつか考えることにする。あんまり自由意志について考えすぎると、逆に生活に不自由するから。
哲学思考トレーニング (ちくま新書 (545))
伊勢田 哲治
4480062459

伊勢田先生の新書で、欧米ではやっているらしいクリティカルシンキングについての本。父の本棚から。実用書みたいな形態だけど、哲学の議論を日常に応用しようというとおり、内容は結構高度だ。デカルトからカント、ヒューム、さらにはデイヴィドソンやグライスに至るまでの英米系哲学での議論を幅広く触れており、元ネタ全部知っているとかなりの通である。ピュロン主義とかさすがに知らんかったし。実はこの本はかなり有用だから、詳しく解説というか再構成したエントリを書いていたのであるが、間違って執筆中に消してしまったのでまた別な機会に書くことにする。人と議論したり、論文書くときに本当に参考になります。
社会学入門―人間と社会の未来 (岩波新書)
見田 宗介
4004310091

これも父の本棚から。久しぶりいわゆる社会学関係の本を読むと、自分がいかにこの世界から遠退いたか実感した。なんというか全体的にピンとこない。見田先生の話というのは、いささか古典的な反映論が多くて、ある文化的現象がその時代の心性を反映しているというお話が多い。しかしながら、その文化的現象のサンプリングが恣意的な気もするし、その解釈だって正統化よくわかんない。一言で言うと実証性に乏しい。
まあそれでもそれなりに面白いところもあった。それは人間の人口をグラフで表すと「修正ロジスティックス曲線」と呼ばれるS字型をとり、要するにある段階まで等比級数的に増えて、絶頂期を過ぎると下降するというものだ。これは1960-70年代の「熱い時代」が人口というマクロな視点からみても特殊であることを示すデータになる。生物学的に普通に考えると、人口の絶頂期は一回きりしかやってこない。どうやら60-70年代がその時代であり、その時代の文化に何か特殊なものを見出すことが多い我々としても納得するところである。あんな時代もう来ないのである。もう二度と。
しかしなんにせよ、これが入門書っていうのはちょっと微妙な気がする。入門の入門というか、社会学的なおもろいお話はこんな感じでっせ、というぐらいにしかならないだろう。というか、見田社会学社会学全体からすると結構特殊なんかもしれない。
先生はえらい (ちくまプリマー新書)
内田 樹
4480687025

これも親父の本棚より。もとより内田先生のお話は眉に唾をつけて聞いているもんだから、基本的に最初のほうはかなり疑り深く読んでいた。というのも、ラカンは20世紀でもっとも頭が良いとか言うもんだから(もっとも難解ならともかく)。しかしながら、そのように疑り深く読んでいても最終的なオチはかなり絶妙に決まる。なんというか、これは本当に絶妙。この文章と構成はもう名人芸のレベルである。よくこんなアクロバットな話ができるもんだと感心してしまった。張良と黄石公の話はマンガとかで知っていたけど、こんな解釈するなんて、マジで驚いた。
とはいうもの、「学ぶとは何か?」という疑問には納得がいく意見が書かれているが、逆に人をいかに教えるかについてはほとんど有用な知識は与えてくれない。まあそれはテーマが「学びの主体性」だから仕方ないのかもしれないな。というか「学びの主体性の不可避性」みたいのを説いているわけだから、逆に教えることの不可能性について言っているようにも思える。
それにしても、このような論法って論理学的に形式化するとどうなるんだろうと、最近の私の頭はどうもそのように考えてしまう。おそらくいわゆる構成的両刀論法みたいなやつで、A→B、C→B、A∨CゆえにBみたいな話に思われる。ついでに結論にあたる部分が自己言及的で、「…だからAである」と主張しながら、それに反論すると「ほらAだ」みたいな構造になっている。つまり、結論を受け入れる、もしくは、受け入れないことが結論を支持する、みたいな結論になっているからなんというかキワモノだ。確かになんだかマジックにかけられた気分だけど、それでも何だか納得するのは納得するから、人間にとってこういう議論も必要なんだろうとも思う。まあ反証可能性はまったく無いから、科学的言説としては支持できないけど。