オタク、サブカル、そして東京

新年にとある夫妻とベトナム料理を食べていたときの話である。あくまでも酒飲みながらの講釈であるからマジメにとってもらうと困るのだが、オタクとサブカルはそんなに対立していないとか、いやそれでもオタクとサブカルは大分違うとか、言う議論のとき、我々はその二項対立に囚われすぎているのではないだろうか。
昔、大橋先生(いまではすっかりはてなダイアラー)が文学批評の授業でともかく二項対立は単純化してしまうから、三項関係で解釈すると何でも良くなると話していた。だからオレはこの二項対立に、もう一項付け加えてみた。それが東京。オタクでもなく、サブカルでもなく、東京という趣味、あるいは東京原住民の趣味というのがあるように思える。
その昔、渋谷陽一ロキノンで東京原住民について書いていたことがあったが、地方ゆえのスノッブさから卓越化ゲームに走るサブカルとも、ある種のルサンチマンの発情であるオタクとも違った、東京という趣味の分類がないのであろうか?
私が知る限りにおいては、東京原住民の趣味は他者との関係性やルサンチマンといった感情的反動とは無縁に作られているように思われる。具体的にはいろいろと書ききれないが、昔、大学の東京出身の知人が「オレは友達が欲しいからDJをやめてオタクになった」といっていた。つまり東京出身の彼にとってはどの趣味を選ぶかというのは、あくまでも人間関係を作るためのツールに過ぎないのだ。そういういろんな意味での軽い文化的趣味の摂取を、それっぽくいうとカタカナでトウキョーとでも言い表したらどうなのだろうか。