音楽と感情をめぐる冒険

美学会の全国大会のために取り組んでいる課題についてメモっておく。
少しばかりキャッチーに書いてみたが「音楽と感情」の問題は、誰でも関心があってわかりやすい問題であり、かつ現代の音楽に関わる学問の最大級の問題であると思う。
基本的にこの問題は素朴なものである。要するに音楽と感情には何らかの本質的な関係があるか、否かといったものである。そういう疑問が提起される以上、我々は普通、音楽と感情の間に非常に強い関係があると考えているのである。というのは、「感情とクルマのデザインの間に本質的な関係があるか、否か?」などといった疑問は普通、提起されないから(しかしながら、クルマのデザインについても我々はエモーショナルだとかいう記述はするのである)。
この問題へのアプローチは当然ながらディシプリンによって違う。そして、その異なったアプローチによる考察からは、それまた異なった仮説が提起されるのである。とりあえず、自分が今のところ掴んでいるアプローチと仮説を以下に書いてみる。

  • 進化論的研究によるアプローチ

近年、音楽に関する進化論的研究が盛んである。進化論的研究っていうのは、進化心理学や認知考古学とか進化とか認知とか頭に付くような学際的な分野で行われているものだ。要するに、音楽というのを多様な人間の文化的産物としてみなす方向ではなく、人間に普遍的なものと考えたうえで、それを進化論のアプローチによって説明するものだ。進化論の中での音楽の扱いはマイナーであったが、ピンカーの心の仕組み~人間関係にどう関わるか〈上〉 (NHKブックス)での「チーズケーキ」発言によって議論が巻き起こったようだ。ピンカーの「チーズケーキ」発言とは、音楽は進化の副産物であって、それ自体に適応性は無いという主張。これ自体、彼の積極的な意見というよりも、進化論において音楽がいかに軽視されてきたかについての証左とみなすべきだろう。
ピンカーの「チーズケーキ」発言に対して、もっとも積極的に反論したのがイアン・クロス(Ian Cross)だ。彼自身はたぶん音楽心理学者だと思うんだが、認知考古学のスティーヴン・ミズン(Steven Mithen)の心の先史時代における人間の認知流動性、認知柔軟性といった考え方や、子守唄研究のコールウィン・トレヴァーセン(Colwyn Trevarthen)の母子間の音楽によるコミュニケーションといった研究事例を材料に、音楽の人間の進化への適応性を主張した。またスティーヴン・ミズンもイアン・クロスと呼応する形で心の先史時代の後に、歌うネアンデルタール―音楽と言語から見るヒトの進化で、音楽と言語の起源にHmmmmmという音楽的な言語があったという大胆な仮説を提唱している。
「音楽行動論」を提唱する福井一によれば、音楽の進化的適応性に関して三つの説、性選択説、母子相互作用説、社会統合説があるが、ダーウィンやミラーなどが主張するような音楽が配偶者選びに関わるという性選択(淘汰)説を除けば、母子相互作用説、社会統合説の両者も音楽と感情の本質的なつながりに非常にコミットしているようだ。ただしそれぞれの説で、音楽と感情の結びつき方に関する見方は様々であるし、そのような進化論的な意味での音楽と感情の関係についての仮説が、現在の我々の高度に洗練された文化としての音楽にどれくらい関係があるかについても様々な見方がある。
しかし、特別に進化論的アプローチをとらない認知心理学では、音楽と感情の関係はある程度、自明視されており、演奏によって感情を伝えることが可能かなどといった研究が為されている。
つまり、人間の本質的な音楽性といった方向性を持つ研究においては、音楽と感情には本質的な関係があるという主張の方が一般的である。これは次に見る音楽美学における感情についての扱いと正反対であると思われる。

音楽美学の歴史全体を見通すならば、一般的に音楽と感情の本質的な関係は主張されてきた。ただし、ハンスリックの音楽美論以降の近代的な音楽美学を見る限り、音楽と感情の本質的な関係に対する哲学者の見解は概ね否定的である。
英米哲学の中でこの問題を積極的に取り上げた人物としてまず挙げられるのは、ロジャー・スクルートンである。彼の音楽と感情に関する基本的考えは想像説と呼べるものだ。これは本質的関連を支持する立場と否定する立場の折衷案のような、想像においてそのような関連を認める説らしい。この説の現代の継承者はジェロルド・レヴィンソン(Jerrold Levinson)である。
一方で、音楽と感情の本質的関連に関して極めて否定的な立場としては、ピーター・キヴィ(Peter Kivy)とニック・ザングウィル(Nick Zangwill)が挙げられる。キヴィは音楽と感情に関わる論点として、音楽そのものが聴き手の感情変化を起こすと主張する「感情派」と、ただ単に聴き手が音楽の中に感情的なものを認知している「認知派」を分けた上で、一貫して認知派の立場から感情派を批判している。またザングウィルはキヴィの立場に共感しながら、音楽に関する感情的な記述を文字通りなものとして理解する「リテラル派」と、それを音楽の中の美的性質の暗喩的記述として理解する「メタファー派」に分けた上で、一貫してメタファー派の立場からリテラル派を批判している。どちらにしても音楽と感情の間の本質的な関連に関して否定的であり、ザングウィルに至ってはハンスリックの基本的な立場を強く肯定している。
昨今の音楽学(ニューミュージコロジー)の内部ではハンスリック的な伝統である形式主義的な音楽美学は批判されがちであるが、このように哲学の分野で為される音楽美学においては依然としてそのような立場が強固である。そしてこの現代の音楽美学の主張と上述した音楽の進化論的研究の主張は一見して調停しがたいくらい異なっている。音楽と感情に関する現代の研究において、この対立をいかに理解するかが非常に重要なポイントだと思っている。
あともう一つ、文化研究的アプローチにおける音楽と感情についての主張というものもあるだろうがとりあえず今日はこれくらいにしてしとく。
====お詫びと訂正====
このエントリでロジャー・スクルートン(Roger Scruton)と成っているところを、間違えてピーター・フレデリック・ストローソンと書いてしまってまいたのを後で気付いて訂正しました。誤解を招くような記述をしていたことをお詫びします。というか、いくら名前が似ているからといって間違えるのはかなり恥ずかしい・・・。記憶を頼りにして書かず、ちゃんと参照元を手元において書くようにします。マイナーな分野だけに、間違った情報を広めてしまうリスクが非常に大きいことを痛感しました。ブログであっても研究者としての責任を常々自覚しながらやっていかないと思います。