三度「美的判断」について

もうオリジナルの議論からはほとんど離れてしまったが、まだまだ「美的判断」について書くことがあるから困ったものだ。いい加減にしたいところではあるが、やはりこれは美学の根幹にかかわるから書かないわけにいかない。とりあえず語り口をぬるくして続けていくことにする。
ここまでに議論に関しては以下を参照して欲しい。
http://d.hatena.ne.jp/shinimai/20070417/p1
http://d.hatena.ne.jp/shinimai/20070413/p1
http://d.hatena.ne.jp/shinimai/20070419/p1
今回は「反応と判断」という問題から持続する形で「非言語的な美的判断」に関して書いてみたい。

非言語的な美的判断の可能性

上のエントリーでは書かなかったが、昨日行ったイベントで一番興味深く感じたのはこんなことだ。大学で無料で行われるライブイベントということもあって、来場者は音楽好きの若者ばかりというよりも結構お年を召した方や普通の主婦のように見える人も結構いた。多分、普段そんなに音楽を聞き込んでいるという風には見えない人もいたけど、そのような人も音楽に合わせて体を軽く動かしていた。全席座りなので大きく動くわけにはいかないが、いわゆる音楽に合わせて「ノッて」いたのである。しかも曲によっていわゆるポピュラー音楽でいう「たてノリ」、「よこノリ」にという風に「ノリ」分けていたのであった。ポピュラー音楽でいう「たてノリ」、「よこノリ」っていうのは要するに音楽のリズムの強調の仕方で区別されると思うが(前者がいわゆる4つ打ち的な頭打ちのリズム、後者がレゲエなどに見られるような裏打ちのリズム)、そのような言葉を帰属させることができなくても、身体的反応のレベルではかなり自然に人は区別することができるのだ、ということを改めて知ったのである。
さて、問題はここからである。私は「たてノリ」、「よこノリ」を身体的反応と言ったが、果たしてそれは本当に反応であるのか?もしかしてそのようなものは反応以上の何か、つまり判断であるという可能性はないのであろうか?


美的判断とは従来、ある現象Xに対して「XとはAである」と言明することをモデルとして考えられてきた。そして、そのAがどういった種類の述語であるのか、そのような言明が真理値を持つか否か、などに関してこれまで盛んに議論されてきた。つまり、判断というのは何らかの命題的な内容を持つということだ。
ただし、この場合、その命題的な内容が明示的に言明されることもに自明とされてきたように思われる。だが、美的判断をする者が皆、このような言明を口にせねばならないという訳ではない。口にすることは無くとも、美的判断を為す者はそのような命題的な内容を心に抱いていなくてはならないということである。そもそも、そうでなければそのような判断が真理値を持つか否かといった美的判断に関する伝統的な問題設定が成り立たないのである。これは、前回は言及しなかった判断と反応を峻別するものの一つである。
このように美的判断をその命題的な内容を言明することから引き離して考えるならば、非言語的な美的判断が存在する可能性があるように思われる。例えば、私はライブハウスで素晴らしいロックバンドの演奏を聞かされると、自然に体を動かしたくなる。要するに、素晴らしいロックはノれる。そのような身体的な振舞いは判断と呼ぶことができないのであろうか。
なるほど確かに我々は音楽に合わせて「自然に」ノッったり、ノラなかったりする。それはある現象にたいして、主体的に判断を為しているというよりも、そのような反応を強いられているようにも感じる。そのような観点から「音楽に合わせて体を動かしているものは、反応をしているのであって、何らかの判断を為しているわけではない」と主張することも説得力があるように思える。
しかし、前回も言及したとおり、美的判断というのは常にその主体性と拮抗するような美的な強制力があり、むしろ真正の美的経験とは美的判断の主体性を圧倒するようなものに思われる。要するに、明示的な言明が介在するような判断においても――ハイ・カルチャーに関する批評とかでも散見されるように――作品の側が鑑賞者に判断させるというよりも反応させるということは珍しくない。演劇や音楽、絵画、文学でも何でもいいが、そのような批評の場で「私は作品に圧倒された」とかいう表現はごく自然なものだ。
前回の議論の中で、判断を反応から峻別するの契機の一つとして主体性があると言った。ただし美的判断においては、それが判断であることとそれが反応であることが両立しないわけではない。むしろ、美的判断であるためには、それが何らかの主観的な反応に基づいている必要があり、さらに美的判断の規範性の由来も反応の規範性にルーツがあるということは、「[(http://plato.stanford.edu/entries/aesthetic-judgment/:title=美的判断]」の項目でZangwillが確認していた重要なことである。
よって以上のことから、たとえ音楽に合わせて「ノる」ことがある種の身体的反応であっても、そのことによってその「ノる」という行為が美亭判断では無いというわけではない。非常に言語的に洗練された批評文のようなものであっても、それが美的判断であるならば、その大元にはそのような身体的な反応が存在するはずである。
このような身体的な反応のレベルから美的判断という問題について考察したものとして、ヴィトゲンシュタインの『美学、心理学および宗教的信念についての講義と会話』と題された講義ノートがある。そこでヴィトゲンシュタインは美的判断を「是認の身振り」として捉えることを提案しているが、その「是認の身振り」を音楽に関わる「言語ゲーム」全体の重要な要素として考察している研究としてそ矢向正人の著作があげられる。
音楽と美の言語ゲーム―ヴィトゲンシュタインから音楽の一般理論へ
矢向 正人
4326851864

実はまだ読了していないのでここでの言及は避けるが、美的判断を「是認の身振り」といった身体的行為から理解する試みは全面的に賛同するものの、ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」という概念を社会システムとして語るやり口には相当の違和感を感じる。


さて話はそれたが、要するにここで問題となっていることは、「XとはAである」という言明を為さなくとも、何らかの身体的な行為を美的判断として考えても良いのではないか、ということである。そのような非言語的な美的判断の可能性に対しては以下のような反論が想定される。

  1. そのような非言語的で身体的な行為には、美的判断が持つような規範性が存在しない。
  2. そのような非言語的で身体的な行為には、美的判断が持つような実体的な美的性質の記述的内容が存在しない。

1に関しては容易に反例をあげることができる。例えば、クラシックのコンサートとロックのコンサートではその聴取の仕方が違う。それはただ違うだけではなく、「正しい」聴取の仕方という形で規範性を持つものである。また前回述べた美的判断が持つ三人称的関係における相互作用性――つまり、何らかの美的判断を為す者も、また判断に晒される――はこのような身体的な行為にも存在する。そうでなければ、初めてクラブなどで音楽に合わせて踊るときの独特な緊張感を説明することができない。家で一人で音楽を聴く場合を別にすれば、他人と音楽を共有する場所――つまりは三人称的空間――における身体的行為、振る舞いといったものには多かれ少なかれ規範性が存在するのである。http://www.asahi.com/culture/music/TKY200703160235.htmlとかhttp://okaka1968.cocolog-nifty.com/1968/2005/02/post_11.htmlのような事例はこのことの良い証拠であろう。
次に2に関してではあるが、これはなかなか厳しい反論であると思う。ある音楽に対して体を揺らして「ノッて」みても、それは身体的な反応ではあるが、その音楽の特徴や質というものを捉えているとは言えない(音楽の記述と鑑賞についてはhttp://d.hatena.ne.jp/shinimai/20070210/p1http://d.hatena.ne.jp/shinimai/20070114/p1を参照せよ)。別の言葉でいえば、音楽に対する身体的行為は批評的である可能性はあるが、身体的行為によって音楽の批評は行えないとでも言おうか。ただし、これは「批評」という言葉の定義に関わる問題によって左右される。同様にそのような身体的行為が美的判断か否かに関しても、「美的判断とは何か?」という問題への解答の仕方に左右されるものである。
例えば、上で触れたヴィトゲンシュタインの「是認の身振り」という考え方によれば、人は「美しい」、「きれいだ」といった言葉は感嘆符として学ぶ(矢向2005、P. 79-80)という。これはつまり、ヴィトゲンシュタインは美的判断をこのエントリで捉えているように命題的内容を持つものと考えてないことを示す。そしてこのレベルでは、身体的行為もある対象に「美しい」、「きれいだ」といった述語付けを行うことも同じだと言える。そして、確かに人の表情や振舞いは、端的にあるものを「美しい」、「きれいだ」というように、対象の何らかの特質を記述するというより行為者の感情の表出であったり、価値観を表すものであり、その対象の記述的内容には乏しい。だが、Nick Zangwillが言う「評決的美的判断」というレベルでは、そのような身体的行為を美的判断として捉えても良いかもしれない(http://d.hatena.ne.jp/shinimai/20070413/p1を参照せよ)。たとえそのような身体的行為が、批評と呼ばれる言語的行為のように対象の特徴や質を記述するようなことはなくても、そのものの何らかの価値を伝えるレベルで美的判断を行っていると言っても良いのではないだろうか。
さらに言えば、そのような身体的行為が何らかの対象の質を捉えていると言える場合もありうる。例えば「どんな音楽が好きなの?」という質問に対して、頭を激しく振る行為で答える者がいたとする。質問者がある程度の知識があるなら、そのヘッドバンキングの行為からその行為者の好きな音楽についての情報が得られるだろう。もちろん、言語的表現が伝える内容にはほど遠い。だがその身体的行為によって、その行為が相応しいとされる音楽を含意することが可能であるように思われる。もちろん、そのような含意は語用論的レベルで考えるべきものであって、「XはAである」といった美的判断の範例とされてきたものとはレベルが違うように思われる。
以上のように、非言語的で身体的な美的判断はある一定の留保の上で成立可能だと思われる。そして、主に言語的なコミュニケーション(楽譜による記号的コミュニケーションも含むが)によって媒介される西洋よりも、むしろその本質として身体的なコミュニケーションによる媒介に支えられているポピュラー音楽においては、そのような非言語的で身体的な美的判断の方が一般的であるし、重要性が高い。美的判断を「XはAである」といった言明のモデルで考える言語哲学による美学は、結果として身体的な美的判断を過小評価し、ともすればポピュラー音楽において美的判断は存在しえず、ただ受動的な反応だけが存在するというようなアドルノ的な音楽観に接近する恐れさえあると言える。また、カルチュラル・スタディーズなどの文化研究の領域で主張されてきた、クラブ・ミュージックなどにおける身体行為の「主体性」とは、以上で述べたレベルでの美的判断の存在を主張してきたと捉えることができる。少なくとも、ポピュラー音楽を研究領域として設定する私にとって、このような非言語的で身体的な美的判断について軽視することはできないのである。
さらに付け足すならば、例えば、ジョン・ケージ『4分44秒』4分33秒』という作品の初演の際に、演奏が終了した後に拍手をした者がいたかもしれない。そのような者は、確かにその作品の特徴や質を掴んでいるとまでは言いがたいが、今日の視点からすれば優れた身体的な美的判断を為したと言えないだろうか。また例えば、形骸化したアンコールを拒否するという形でオーディエンスの「主体性」を要求したことにより、ストーン・ローゼスは自らの音楽の「芸術性」を認めてもらおうとした、と言えないだろうか。美的判断の身体性といった側面に光を当てることは、このようなことを美学的に考察するためには非常に有用だと思われる。