教養的読書

こういう人生を歩んでいると読書が楽しみなのか勉強なのか学問なのかわからなくなってくる。ひょんなことで学問の世界と関係のない職業に就職したら、自分はおそらく読書をしなくなるんじゃないのかって想像する。ゲームとかばっかやりそうだな。そういう意味で自分は巷でいう「読書家」という存在では全然無いんだなーって思う。単に勉強したり、学問したりするのが好きであって読書が好きなわけでもない。考えるのが好きなんだ多分。
で、そんな感じに読んだ二冊。
生き延びるためのラカン
斎藤 環
4862380069

恋人に借りて読んだ日本一簡単なラカン解説書。この軽薄な文体はともかく、本当に読みやすいし、これまでなんとなくしか理解してなかった用語とかがよりはっきり分かった。ただそんなに新鮮な発見はない。まあ基本的な精神分析の理論については文学批評理論とか学ぶ課程で身についていたので確認になった感じである。
しかし、ラカンの理論は本当に便利っていうか、なんでも使える気がしてならない。まあそうやって分かった気持ちになるのはどうかとは思うけど、自分が常日頃、音楽ジャンルについて考えていることをラカン理論で眺めてみるとかなりあっさりと説明がついちゃうんだな、これが。
ティーヴ・ニールの映画ジャンルの理論を応用しているトインビーのジャンル論(参照http://d.hatena.ne.jp/shinimai/20061208/p1)もフロイトっていうよりもラカンを応用したらより分かりやすい。
ロック、ヒップホップ、パンク、ハードコアといったような規範性と恣意性の対立の上で両立する特徴的なジャンルはほとんどラカン的には対象aとして機能しているっていっていいんじゃないか?少なくとも「ポケモン対象aだ!」って言うよりも妥当していると思う(笑)。
ただこの対象aっていう述語はこの本読むだけでいまいち具体的に何のことかは分からなかった。「欲望の原因」ってのはよく分かるけど、原因っていうものは具体的な意味での対象ではないんだよね?実際の欲望の対象はよく分かるんだけど(大文字の他者ってややつ)、その原因ってのはまあ象徴的にも想像的にも把握されえないような純粋の体験(というかその記憶、トラウマ?)のようなもんだと自分は理解したんだけど。
まあそうすると音楽ジャンルを支える欲望ってのはいわゆる「ロック体験」みたいなもんで、その音楽が何のジャンルか把握する以前の体験であって、それが言葉としての「ロック」と結合することで対象aとして機能する。そしてロックを目指す実践(音楽生産、音楽読解の両方)は、その対象aとしての「ロック」によって惹起されるんだけど常に失敗する運命にある。だからこそ、その欲望は果てることなくその実践における差異を延々と作り上げるのだ。
まあこんな感じで音楽ジャンルの特徴はたしかにラカン精神分析によって解釈可能であると思う。ちなみの多くのロックで成功したミュージシャンが往々にして「ロックじゃない音楽をやりたかった」などと発言するのは精神分析的症状って言ってよいと思う(笑)。自分は言語分析的研究から、ある美的な質を表す形容詞が実在性を帯びることでシニフィアンシニフィエとして誤認するという現象において、ほぼラカン的な考えに自然に繋がった感がある。ただ精神分析理論ってのはどちらかというと理論モデルであって解釈のためのツールであるのに対して、自分はその理論が指し示す現象がどのように実際に起こるのかを分析的に明らかにしたいと思う。なんにしろ、自分の考えていることを違ったモデルから眺めるのは非常に参考になるな。

読む哲学事典
田島 正樹
4061498398

お次はこっち。これは奇妙な本だった。哲学的な用語を一人の哲学者が横断的に解説するという意気込みはよく分かるが、全体としてこれは事典というよりもエッセイと言ってよい(より哲学的にはエセーw)。しかも内容もはっきりいってかなり高度だ(昨今のしょぼい新書に比べるとね)。これを手始めに哲学でも勉強しようかという気になった人はご愁傷様でしたって感じである。何しろギリシアの哲学から現代の言語哲学までの話を何の注釈もなしに縦横無尽に駆け回るのである。おまけに「ハゲとブス」なんていうオチャラケた項目があって初学者は煙に巻かれること必至である。
しかし、ある程度哲学に馴染んだ者にとってはこの散漫な話し振りは快楽を与えるものでもある。哲学という多分オタク的心性の一番原初的な活動の中で、様々なものをネタにしながらしゃべりまくる。これがこの本の基本的なスタイルであり、いろんな言葉があらゆるところで連関していく快感によって自然に何度も読まざるをえない。
本書で一番興味を持ったのはやはり実在論非実在論に関する議論である。これに関してはcharisさんのhttp://d.hatena.ne.jp/charis/20060525から始まる一連のエントリが非常に参考になります。
自分としては美的判断の点で実在論反実在論の話を考えていますが、いまいち頭の中でまとまりません。田島氏はマイケル・ダメット的な反実在論の立場に立つようですが、その実在と反実在という言葉の使い方が自分が知っている使い方からするとかなり独特な感じの印象を受けた。まあダメットとか読んでないからまだまだ勉強が足りませんが。