ジャンルと音楽産業――ポピュラー音楽学におけるジャンル論の簡単な(いい加減な)まとめ3

この問題に関して一番重要な文献はこれだと思う。
Music Genres and Corporate Cultures
Keith Negus
0415174007

タイトルからしてズバリなんだが、だがまだ読んない。だからここではとりあえずこれまでの産業論でジャンルがどのように扱われてきたかを大雑把にまとめる。
ポピュラー音楽の産業論はアドルノまで遡ることになる。その文化産業論はポピュラー音楽学の初学者には周知であるので、ここでは詳しく説明しない。ただジャンルという問題に限定すれば、彼の「規格化」という概念は今なお有用である。アドルノは音楽産業を流れ作業のメタファーによって語り、その物理的パッケージングや流通を超えた部分まで音楽が商品として「規格化」されていると主張する。実際にレコード・ショップや北米のラジオ・チャンネルなどは、ジャズ・ロック・ポップス・オルタナティヴといったように「規格化」された音楽ジャンルごとに区別されている。こういった分類は消費者の都合に合わせられているとも考えられるが、その規格から外れた音楽、つまりジャンル越境的な音楽が流通しにくい構造となっているのだ。この側面を強調すれば、音楽産業が消費者に与える音楽はあらかじめ選択され、ジャンルはそのような消費者をセグメント分けするための格好のものとして考えられる。しばしばオーディエンスやミュージシャンがジャンルに対して否定的な発言(ジャンルなんて関係ない。良いものは良い。ただ自分を表現したいだけ…などなど)をするが、それはそういった産業による支配的側面を無意識に感じているからに他ならない。だが話はそんなに単純ではない。
トインビーがポピュラー音楽をつくる―ミュージシャン・創造性・制度で述べるとおり、ジャンルとは音楽産業が消費者をセグメントするために作り上げた「規格」というよりも、むしろ既存のカテゴリーに音楽産業が依存していることを示すものである。アドルノが例とした「スウィート」や「スウィング」という呼称は、広告業者ではなくファンとミュージシャンが編みだしたものなのである。さらにリチャード・ピーターソンなどを参照しながら、トインビーは産業にとってのジャンルの不安定性を以下のように主張する。

歴史的に言って、いくつかの音楽カテゴリーはラジオ番組によって構築され、特定の種類のリスナーを目標に定めるために産業全体に広く行き渡ってきたのである。その例としてはトップ40やアダルト志向ロック、コンテンポラリーとヒット・ラジオがある。しかしながら、これらのフォーマットが全国的な「実際の」市場の嗜好を反映できていないのではないかという、ラジオ業界内部の不安によって、あらゆる音楽類型論は一時的な目安にしかならず、オーディエンスをフォーマット化し直し続けているのである。
p. 254

従来の音楽産業論は商売と創造性、企業支配と創造的自律性といった両極端に描かれてきたのに対して、トインビーは「制度的自律性」という概念によって、音楽産業の構造的性格ゆえにアーティストが制度的に自由に仕事を行っていることを説明する。そこから考えれば、ラジオ番組に限らず、音楽産業側が完全に音楽ジャンルに対して支配力を持っていると考えることはできないのも当然だろう。さらに前回扱ったジャンルとアイデンティティの問題においては、音楽の意味は産業にのみ決定権があるのではなく、聴衆との絶えざる読み替えによって生まれるものだ。そう考えればジャンルの決定においても、それは生産と受容の場で接合されていると考えるべきであろう。
このような産業側と聴衆の間のジャンルの不安定性を考えるには、日米の間のAORソフト・ロックと呼ばれるジャンルの違いを考察するのが良いだろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/AOR
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%95%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF
往々にして音楽ジャンルは、産業側が用いようともオーディエンスに異なった解釈がなされ、またその新たな解釈を産業側が拾うというような相互関係として機能しているだろう。
さらに音楽産業論の内部では、音楽産業がその商品やアーティスト、オーディエンスを一方的に支配するような産業決定論は批判され、音楽産業の個々人を役割を「門番」ではなく「文化仲介者」として描くニーガスのような主張も多く出てきている。で話は戻ると、そんな風に音楽産業の参与観察とかしてジャンルを問題に扱ったのが最初に紹介したニーガスの本だと思います。
とりあえずこれで終わり。