フランク・シブレイのヴィジョン

以前から読んでいて、コロキウムの論文紹介でも使ったこのFrank Sibley(フランク・シブイレ)へのトリビュート論集の第1章“Introduciton: Sibley's Vision”Emily Bradyを読んだのでメモ。
Aesthetic Concepts: Essays After Sibley
Emily Brady Jerrold Levinson
0198241011

この1章はまあイントロダクションなので、シブレイの研究の概要をこの論集の他の章でのそれぞれのトピックと結び合わせる形でされるサーベイ論文である。シブレイの美学における哲学的貢献を知りたい人や、現代の美学の主要な問題にアクセスしたい人には有益だと思われるので全体を簡単に紹介するとともに、シブレイの主要論文の一覧をこの機に作っておきたいと思う。


まず、シブレイの美学は戦後のオックスフォードの哲学的土壌によって形成されたのであるが、当のオックスフォードでは美学は「哲学の『シンデレラ』であり、論理実証主義の伝説と言語への哲学的関心の気候では事実上無視されていた」そうだ。まあさもありなんと思うし、日本でも英米系の言語哲学を介した美学は今でもシンデレラみたいだが…。まあともかく、シブレイはいわゆる言語論的転回以降の美学者としてスタートしたことは重要だ。これは彼の美学における言葉に対する執念と現象学的な思考への忌避という大きな二つの特徴を及ぼしていると思う。ともかくそんなオックスフォードでシブレイの美学は形成されたが、そのときの同僚としては同僚としてはモンロー・ビアズリー(Monroe Beardsley)、ポール・ジフ(Paul Ziff)、マックス・ブラック(Max Black)、ハロルド・オズボーン(Harold Osborne)、マーガレット・マクドナルド(Margaret MacDonald)、アーノルド・アイゼンバーク(Arnold Isenberg)、ルビー・ミーガー(Ruby Meager)、J. O. アームソン(Urmson)、ヴィンセント・トーマス(Vincent Tomas)、マイケル・スクリーヴィン(Michael Scriven)、マイケル・ターナー(Michael Tanner)など戦後の有名な美学者が連なっている(とはいえ俺も知らん人も含むので発音があってるかどうか知らんのであしからず)。


基本的に言語哲学からスタートしたシブレイは、形而上学的、存在論的、心理学的な方向には向かわず、何よりもまずその美学における言葉の問題を第一の関心としてすえている。このシブレイの思考の側面は、美学の問題へのアプローチだけではなく、美学の外の問題へのアプローチにも見られる。それは、「知る(Know)」や「考える(think)」といった一般的な動詞の分析や、叙述(predicative)形容詞と限定(attributive)形容詞の区別といった問題に現われており、現代の心の哲学への先鞭となる思考となっている。この何よりもまず言語分析によってアプローチをするという彼のスタイルは、後期になって芸術作品の概念、独創性、音楽の解釈、芸術の外部の美的経験といった初期とは違ったトピックを扱う際にも続いている。そしてこの傾向は、ある意味で情動や想像力についての現象学的議論を避けることと表裏一体となっていると言える。そうしたことから、シブレイは同時代の同僚の研究者が興味をもったトピック――意図、真実と虚構、解釈、芸術の定義、表象、表現――にはあまり関心を示さなかった。


これは私の所感なんだが、戦後の言語/分析哲学における美学の最大テーマは「芸術の定義」や「芸術作品の同一性」といった、当時の芸術運動の中で現われた様々な新しい「美しくないファイン・アート」ってのをいかに美学において説明を与えるかということであったと思う。ダントーやグッドマン、マーゴリスなどにおいて代表され、日本でも分析美学の第一世代として知られている研究者は主にそのような問題に取り組んだといえるが、シブレイの関心はそれとは少し違っている。彼の関心は「芸術」といった歴史的概念からは離れた、我々がある対象を「優美である」とか「繊細である」といった美的な言葉によって語ることにある。ある意味で感性学としての美学という原点に忠実だとも言えるその思考は、現在の美学において主なトピックとして扱われる自然美、日常生活の美、またはより一般的な美的性質といった問題系の先駆けとして評価されると思われる。


話を戻すと、そのような彼の哲学全体を概観して、Bradyはシブレイの哲学のテーマを以下の三つにまとめる。

  1. 美的記述と美的性質を理解するための美的/非美的の区別とその関わり合い
  2. 美的正当化と教育のための美的価値評価の識別できる特徴とその関わり合い
  3. 美的領域の境界の探査と拡張

ここではシブレイのそれぞれへの主張を吟味するのは置いといて、これらのテーマが現代の美学のどのような問題関心へとつながっているかだけを書いておく。


まず1は美的概念(Aesthetic Concepts)として知られるシブレイの最も有名な仕事であるが、彼の「記述的価値用語(descriptive merit-term)」や「評価付加的用語(evaluation-added term)」といった分類から美的性質が実在するかどうかという、美的実在論という問題が立ち上がってくる。実在論は科学や道徳においても現代の哲学における最大の問題の一つといってもいいものだが、シブレイが注目した「優美な」や「繊細な」といった「分厚い記述」を与える用語においては、対象には何らかの美的性質が内在するのではないかという、美的実在論が立ち上がってくる。これまでの美学は「美しい」といった非常に価値的な言葉に注目するあまり、そのような述語による判断は、主に判断者の知覚の仕方や態度にあるものであって色や形といった実在的性質に基づくのではないと考えてきた。しかし、私には昨今の徳の倫理学のお話とほぼパラレルだと思われるのだが、「優美さ」や「繊細さ」といった確かに価値的ではあるが、それと同時に「分厚い記述」を与える述語による判断には、対象に内在する性質と関連するのではないだろうかという考えが美学においても主流に成ってきている。さらにこの点は、これまた倫理学とパラレルだが、非美的性質と美的性質の間のsupervenience(依存性、付随性、まだ訳語が定着してない)の問題につながる。シブレイは、美的と非美的の関係を記述するためにsupervenienceの概念を決して使ってはいないが、美的質はそれらの存在のために非美的質に依存しており、非美的質の変化が美的質をも変化させるという彼の発想は、現代の美的性質のsupervenience論の先鞭を付けるものとなっている。だがこの論集の中でも述べられているように、シブレイは形而上的レベルでのsupervenienceに関しては議論しておらず、彼を美的実在論者とみなすのはどうも無理らしい。彼は上述のとおり、精緻な言語分析に関心を傾ける反面、存在論現象学的思考を避けていた。だが彼のアイデアの多くはそれに賛成するにしろ反対するにしろ、現代の美学における美的実在論の源流となっており、この論集の中でも多くの著者がその問題に取り組んでいる。


次に2であるが、シブレイは基本的に美的判断を知性的なものではなく知覚的なものとして捉えていた。このため美的判断を成す為には、演繹的、帰納的証明といったものに頼るのではなく、「知覚的証明(perceptual proof)」といったものに頼ることになる。それは批評家が自らが成した判断の正当性を他人に訴える「説得の技術」とでも言うものであるが、それがいかに客観性を持ったものとして他者に伝えられるのかということが最大の問題である。これらに関するシブレイの議論は、実践的な批評の場や美的な鑑賞の教育の場に有用なアイデアを与えると共に、美的判断を特定の知識などに頼った知性的な判断と考えない彼の立場は、芸術作品の秘儀性や批評家の特権性といったものを切り崩すものとなる。美的判断の言語を日常的な言語から連続するものと捉えることで、シブレイは芸術(もしくは芸術批評)のある種のエリート主義的な部分を批判することになっている。


最後に3。その対象よりもその言語への分析によって美学をスタートしたシブレイにとって、既存の美的なものとされる領域を疑うことは当然の事であった。その結果、彼は第一に美的な判断や記述がなされる領域を、芸術作品だけではなく、自然物や日常的な物事にまで拡大した。そして第二に、美学において支配的な視覚、聴覚を中心とした考え方に異議を唱え、味覚、触覚、嗅覚における美的な判断、記述の可能性を主張する。こういった彼の立場は、現代の美学において自然美、環境美学といった興味関心の隆盛に大きな影響を与えている。


以上のように彼の美学における言語哲学的探求は現代の美学に多大な遺産を与えている。残念ながら日本語には一つも訳されてない…。主要論文リストは疲れたので今度作ります。上記の内容はいい加減にまとめたのであんまり信用なさらないように。