電車で読書

Y氏に貸してもらったコレを読了
現代倫理学入門
加藤 尚武
406159267X

平易な言葉で書かれたトピックごとの倫理学入門だが、文章が簡潔すぎてなんだか味気なかった。わかりやすいんだけど。哲学的なおもしろさだと以前挙げた
倫理とは何か―猫のアインジヒトの挑戦
永井 均
4782802099

のほうが。まあこっちは普通の人にはたいそう難しい。
自分の研究からの興味では7の「<……である>から<……べきである>を導き出すことはできないか」が面白い。いわゆるヒュームの法則、またはムーアの自然主義的誤謬のお話。
ムーアの批判によってメタ倫理学論理実証主義から直観主義、情緒主義に移行したけど、現在ではそのどちらもあまり説得力がない。実在/非実在論という観点から言うとどちらも極端すぎるからだと思われる。少なくとも「よい」とは直観主義がいうような単純観念ではない。だって理由を聞いたりしてさらなる性質に遡れるから。物がなぜ「黄色い」とたずねる者はいないが、彼がなぜ「よい」のかをたずねることはすごく普通だ。また情緒主義は道徳的判断が真偽値を持たないだけにとどまらず、判断に関する議論もできなくなってしまう。まあともかくこの二つの間のなかでアレコレしているのが実在/非実在に関する現代のメタ倫理のお話なんだと思う。美的判断や批評に関する美学上の立場も実在/非実在の観点で整理したいと思っている。
それからサルトル的な実存主義の倫理は基本的にヒュームの立場と変わらないという指摘は面白い。

理性は情念の奴隷であり、また奴隷であるべきある。理性は情念に仕え、従う以外に何の役目もあえて望むことはできない。……情念は原初的な実存である。

デイヴィド・ヒューム 人性論〈3〉―第2篇 情緒に就いて205ページ、上記の加藤109ページからの孫引き
てことは実存主義の倫理とは広義での情緒主義であるようだ。
さて話を戻すとムーアの自然主義的誤謬には、最近では「心の哲学」で人気のサールが以下のような批判をしている。

  1. ジョーンズは「スミス、私はこれをもって君に5ドル払うことを約束する」という言葉を口にした。
  2. ジョーンズはスミスに5ドル払うと約束した。
  3. ジョーンズは自らをスミスに5ドル払うという義務の拘束下においた(もしくは義務を引き受けた)。
  4. ジョーンズはスミスに5ドル支払う義務の下にある。
  5. ジョーンズはスミスに5ドル払うべきである。

113ページ
なにをたいそうに言っているのかと思われるが、コレが倫理学者を悩ませてきた「<……である>から<……べきである>を導き出すことができない」という法則の有効な批判だというのだ。こんなことを大マジメに考えてる哲学者って存在はやはり笑うべきものだと思うが、とにかく件の法則は実生活上では平気で破られていることは誰でもわかる。法廷の場で「たしかに私は彼から100万円を借りたが、<……である>から<……べきである>を導き出すことはできないから、返すべきだとは思わない」とか言ってもハァとしか言われないだろう。その後にマッキーの論によって説明されるとおり、この法則はナマの事実(brute facts)だけではなく、制度的事実(institutional facts)のレベルを考える容易に反論可能なものなのである。
これについては同様な問題について頭を悩ませてきた美学者にもいえると思われる。特に前期に読んだフランク・シブレイの「美的概念」に関する議論をこの観点から考えてみたいと思う。
関係ないけどbrute factsってBrutal Truthみたいね(笑)