最近読んだ。

パイドン―魂の不死について
プラトン Plato 岩田 靖夫
4003360222

夏休みはなるべく古典を読もうと思う。古本屋で購入。
プラトンの『国家』につながる中期の名作。死刑の日のソクラテスとその友人たちの魂の不死に関する真摯な議論が交わされる。死刑直前にもかかわらず(ソクラテスにとっては当然だろうが)朗らかに議論を楽しむソクラテスの態度にはやはり感動を禁じえない。俺もそれくらいのアレテーをもって死に際したい。
自分の研究上興味深かった点は、イデア論的な実在を強固に語るプラトンは、「大きい」「小さい」といった関係語と普通は考えられるような形容詞に関しても、それを「赤い」や「美しい」といった物の性質と同様に扱っているところだ。そういった意味ではイデア論ていうのは様々な概念を性質の実在に還元する特徴があると思われる。この点、アリストテスなんかはもっと現実的なことを言っているような気がする。
道徳の言語
R.M.ヘア 小泉 仰 大久保 正健
4326198710

友人から薦められた言語分析による倫理学の名著。訳も非常にいいと思った。この本は自らの研究の前半(仮の第一部となるとしよう)の参考にする予定。
ヘアは「よい」「正しい」「べき」といった道徳の言語をその記述的な意味と評価的な意味に分け、後者をより重要なものとすることで、それらの言葉が命令文を導出しうることを語る。そしてそのような言語の論理に関するスタティックな分析にとどまらず、それらの使用に関わる「道徳原理」と言葉の関係をダイナミックに記述するところがこの本の白眉と言えるのではないだろうか。
俺はこの本をほぼパラレルに美的な言葉、例えば「美しい」や、音楽のジャンル名、例えば「ロック」といった言葉に当てはめて考えてきたが、非常に有益な発見がありそうだと思われる。
例えば、さまざまな批評的言説で使われる「○○の死」といったレトリックはいかなるものかと考えてみよう。このようなレトリックが非常に逆説じみたことを表現していることは常々指摘されてきたとは思うが、ヘアの言う道徳の言語の形骸化または原理の硬直化といった状況――つまりはその言葉の評価的な意味が非常に希薄になり、その言葉がいわば引用符付の用法のように、ほぼ記述的な使用をされるような状況――とパラレルに考えてみるとどうだろうか。そうすると、この「○○の死」というレトリックはほぼ次のことを言っていると思われる。
「○○は記述的な意味においては死んだ。つまりその言葉が持っていた記述的な意味で表される対象は、決してその言葉が持っている評価的な意味では評価することがもはやできない。」
つまりは、このレトリックを用いている人は○○という概念の評価的な意味と記述的な意味の不一致を指摘する上で、「死んだ」とは言うものの、その評価的な意味においてまだ何らかの期待を持っているという点で逆説めいた表現をしているのであると思われる。芸術は死んだ、ロックは死んだ、パンクは死んだ、はてなは死んだ(笑)などなど…。