物事の同一性に関するウィトゲンシュタイン的な立場

これは文庫化されていたので最近、2、3日で読んだ。久しぶりの野矢節は快く私の中で響いたので、あっという間に読めた。
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む
野矢 茂樹
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この本の中で野矢氏は『論考』の哲学的な誤りを、要素命題の相互独立性ほぼ一点にあるといって、『論考』の大部分が正しい事を示している。ただこれは本人が言うとおり、すでに野矢自身の哲学といってもいいので、ウィトゲンシュタインが本当にそのように考えていたのかはわからない。ただ『論考』と『探求』の考え方はそこまで断絶しているのではなく、問題の焦点、関心が移った点がはっきり解った。
ところで先日美学会の例会に初めて出席したのだが、そこで議論されていた「作品の同一性」という問題――主に非再現的、非造形的な音楽や今回ではダンスとかの芸術作品がいかに同じ作品として語ることができるのか云々といった問題――をこの『論考』的世界観から見ると非常にあっさり解決がつくように思われる。
美学者はある同じ作品とされる違った演奏や演技(グッドマン的に言えば例示と呼ばれるものだろう)を同一作品と認定するための何らかの対象を探し求めて、楽譜や作者の意味や解釈的同一性や本質存在といったものを見出そうとするが、『論考』に言わせればそんなもん無いと言うべきと思われる。
作品の同一性といった問題の現実的な状況というのは、ある名の使用によって他者と事実の共有が出来るというだけのことであるのだから、実際にその名の像としての対象が同一であるという必要はないのである。
そしてこのこと自体は特段、芸術作品をめぐった議論に特殊な問題ではない。我々が「ポチ」という名で指す対象にしたって、ラディカルな立場に立てば同一性はない。というか『論考』においてそのような同一性を持った対象を、事実から切り離して認識することは不可能であるとされる。昨日見たポチは「えさを美味しそうに食べているポチ」であり、今日見たポチは「食欲が無さそうで犬小屋にこもっているポチ」であるのは、同じクラシックバレエの『白鳥の湖』と呼ばれる異なる演技=例示と同じレベルの現象であろう。同一の作品の異なった例示に対して、一方を他方より正当性が高いといったことを言及できるのも、あるポチの態度が別の時のポチの態度より、よりポチらしいと判断できるのと同じだ。我々はなにも作品の同一性の根拠となる対象をでっち上げる必要も無く、その名によってその同一性は十分に保障されているのである。
作品の同一性にそのような(言うならば神秘的)対象を与えんとする美学者は、その芸術作品という特殊な対象に翻弄される形で、以上のような言語論的転回を経てみれば当然理解できることをどこかで忘れているように思える。