オレとピクシーズ(1)

えー件の話の副産物として持ち上がったいわゆる「ピクシーズ問題」(笑)ですが、このバンドに青春をやられた一人としては何か言っておこうと思って、珍しく音楽について懐古的な文章でも捧げようかなと思います。「ピクシーズ問題」(笑)とは何か、ということについてははなはだ不明瞭極まりませんが(当たり前だ…)、ここではオレ個人のピクシーズとの出会いなどを織り交ぜつつ、このバンドが日本の洋楽ロック言説の文脈でいかに語られてきたのかを適当に書いときたいと思います。なお、いい加減なことも多分いっぱい言いますんでそこんとこよろしく!
まず、オレ個人としてのピクシーズとの出会いから話しましょう。それは同時代の音楽(レディオ・へッドやベックとかだった)にも少し飽きてきた高校1年か2年の夏でありました。当時、洋楽ロックにおけるヒーローは未だ死んでなお影響力があったニルヴァーナカート・コバーンやイギリスのブリット・ポップとかいうつまらん奴らを一気に蹴散らしたレディオ・ヘッドなどでした。そうした英雄がたびたびリスペクトするバンドとして挙げていたのがピクシーズなのでした(具体的にはカートとレディヘのグリーンウッド弟だったと思う。)。
折りしも、ベスト盤が発売されていたので当然、金沢のタワレコで高校からの帰路の途中に試聴するサエない男子高校生が一人。
デス・トゥ・ザ・ピクシーズ
ピクシーズ
B00005660R

ところがこのベスト盤+ライブアルバム、一曲目の選曲がかなり間違っていてよりによって「Cecilia Ann」。コレはヒドイ。ひと昔前のNWをダサい歌謡曲にしたようなインストではないか!それも時代遅れなカンジのキーボードが入っている!
と一度はそのあまりにもダサさに打ちのめされたオレでしたが、何日かあとヨクヨク聴きなおしてみると、コレがかっこいいではないか!そして家に帰って聴き通すこと数度、名曲「Debaser」に涙を流す、これまた冴えない男子高校生が一人。
てな具合で、オレ個人的なピクシーズの出会いはグランジオルタナと呼ばれたUSロックの大きな波が一度沈静化したくらいのピクシーズ第一次再評価とも言える時でした(98年以降かな)。このベスト盤が以外にも売れたのかもしれませんが、この後オリジナル・アルバムの日本盤も良く見かけるようにもなりました。映画『ファイト・クラブ』で「Where Is My Mind?」が使われたのもこの頃の様な気がします。
その後、ピクシーズアルビニがプロデュースした
サーファー・ローザ(紙ジャケット仕様)
ピクシーズ
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を買ったり、BBCセッションやレア・コンピなどを聴いたりしましたが、そんなころ日本では一つのバンドがインディーの枠を超えメジャーへとデビューすることになります。
透明少女
NUMBER GIRL 向井秀徳 ブラック・フランシス
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それがこのメジャーシングルのB面でピクシーズの「Wave Of Mutilation」ナンバーガールでした。オレはこのナンバーガールクロスビート誌の日本のバンドを紹介するコラムで「全盛期のピクシーズ、シルバーロケットをやってたころのソニックユースを彷彿とさせる博多出身のバンドがいる」とかいう紹介でしったのであります。
ナンバーガールはその後、日本のロック・シーンでは多大な影響力を及ぼすバンドに成長しました。現在の日本のロックにおいてもそれは確かでありましょう。それとともに洋楽を聴かない日本のロック・ファンの間にもピクシーズ知名度が高まり、日本でもトリビュート盤がでることにもなりました。
tribute to the PIXIES
オムニバス
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当時、オレはこれを喜んで買ったものです。なぜならこのトリビュート盤に参加している日本のバンドは自分が好きなバンドでもあったからです。ああ、この人らもピクシーズを聴いて育ったのかと。
ということでコレがある意味、ピクシーズ第二次再評価の動きであったかもしれません。その副産物としてかの押尾学大先生もピクシーズが大好きだという噂も聞こえてくることにさえなったのです。
長くなったのでオレの思いで噺もここまで。今度はピクシーズが同時代的にどのような評価をされていたかを、オレの卒論時からの涙の蔵書、ロッキング・オンやクロス・ビート、ミュージック・マガジンなどを見ることで探っていく事にします。