ジェンダー、じぇんだー、gender,jender,ジ・エンド・だぁ?

たまたまブックマークで見かけた記事が非常に有益なものなのでリンクしときます。
http://d.hatena.ne.jp/rna/20050918#p2
僕の方からなにか付け加えてコメントするようなことはないんですが、もっと多くの人に読んでもらうために。リンク先、コメント欄も参照。
以前から、自民党のサイトのURLがjenderとかに(http://www.jimin.jp/jimin/info/gender/jender.html)なっていたのを苦笑したり、「ジェンダー・フリー」思想をマルクス主義の陰謀とかいう林道義のサイト見ながらあいたたたと思ってたんだけど、やっぱそもそもの起源を知ることによってすっきりしたよ。
というかなんで今までこんな理解でまかりとおっていたのかと頭が痛いのだが、だからといってフェミニストの怠慢だと叱咤するような気もない。というか現実の政治に絡む世界の学問の人は責任が重大だなと、自分はちょっと自信ないですと思う次第。
あとやっぱ「男女混合名簿」は俺賛成で!あと某アルバム委員会の人には、集合写真撮影の際に男女の呼称によって整列を指示しないようにお願いします。

追記:
ここも参照
http://homepage.mac.com/saitohmasami/gender_colloquium/B.htm
特にこれの
http://homepage.mac.com/saitohmasami/gender_colloquium/gfkodawari.htm
こことか

だが、「ジェンダー」には「アイデンティティ」としての意味もある。私が「女」として「女性解放運動」に関わっていることも、私の「ジェンダーアイデンティティ」に基づいているわけだ。ジェンダーは、私のアイデンティティの重要な一側面をなしているのだ。

ジェンダー」は必ずしも、悪いものとは限らない。アイデンティティをなす、という意味で、物理的な障害を意味する「バリア」とはまったく異なる概念なのだ。

例えば同様に社会的アイデンティティをなす、「エスニシティ(民族)」にあてはめて考えるとわかりやすいと思う。民族に基づく差別は当然なくなったほうがよいわけだし、「なんとか民族だからこうあるべき」などという考え方は真っ平ごめんだ。だが、だからといって「エスニシティーフリー」などと言われたら、特にエスニックマイノリティにとっては「自らのアイデンティティをなくさせようとしているのか」ということになるのではないか。私だって、ここアメリカで、「人種」「民族」的にマイノリティとして、woman of colorとして差別されたりする中で、「レースフリー」を目指そう!なんて言われたら、すごく腹がたつ。アフリカンアメリカンだって、ネイティブアメリカンだって、日本だったらアイヌだって、在日の人たちだって、「エスニシティーフリー」なんてとんでもない!と考える人は多いのではないか。

当たり前のことだと思うけど、こういう発言をフェミニストの人からはやく聞きたかった。