すでにブックマークの方で話題になってるネタだが、これ
http://d.hatena.ne.jp/kanose/20050623#musicsense
反射的に加野瀬さんとこにコメント書こうと思ったが、良く考えてるうちに結構難しくなった。だから今日は仕事しながら一日中考えてみた。
まず問題を分けて考えてみる。
第一に前提として挙げられている「音楽というのはセンス競争がすごく強力」というのが妥当か否かという点。
センス競争ってのはなんだってあるし、程度こそ違っても映画や絵画、マンガ、テレビの趣味とかにもあるだろう。でもその違いhttp://d.hatena.ne.jp/kasuho/20050623/p3が言ってるような規模の違いってことに片付けられないと思う。俺も漠然と「音楽というのはセンス競争がすごく強力」ような気がするし、気がするだけってような気もする(笑)が、気がするってのはやっぱ音楽にはそう思わせるなんらかの特徴があるってことだ。まあここら辺は社会調査でもやって明らかにする説明くらいしかないんだろう。
で、そのようなセンス競争が音楽においてなぜ顕著であるかという問題が二点目。栗原さんはコメント欄で音楽がハイカルチャーと地続きのもの(文学、美術、アート、映画など)中で一番「イージー」、つまり「享受あるいは消費ないし蓄積するのに要するコストがもっとも低い」からではないか答えているが、経済的なコストと考えると確かに絵画なんかは貧乏人が相手にされないもんであろうが、文学や映画なら音楽と大差はない気もする。まあ多分、栗原さんが言っているコストってのは経済的なもんだけじゃなくて、それを享受するための知的な咀嚼行為のコストってこともあるだろうから、そうなると音楽は確かに文学を読んで理解するよりもコストが低い気もする。でも音楽だって先鋭的でハイカルチャーの領域に含まれるものは、文学や映画のそういった類のもの(ジョイスとかゴダールとかか?ゴダールはまあサブカルなんかもしれんが、というか映画については詳しくない)と同様のコストが必要な気もする。(だってみんなそんなに好き好んで現代音楽とか聴かないでしょ)
なんだじゃあ、やっぱし程度問題じゃん、って感じだが、それでもやっぱ音楽に特徴的な点があると思う。
まず挙げられる点として、音楽は物じゃないってことだ。絵画やファッションとかと比較すれば際立つと思うが、音楽はそれを所有するということがかなり曖昧で、物の所有というよりも、その精神の所有とでも言うべき享受の構造があると思われる。まあ文学や映画も似たようなとこはあるかもしれないが、音楽をメディアによる録音物として消費しながらもその背後にある物質的でない音楽の精神、アウラ?みたいなもんを常に想定しているところが音楽の特徴のような気がする。(だからライブに行かないやつ、行くやつよりも音楽がわかってないとされる。それが本当にライブによって生まれた音楽であるか否かに限らず)
でもその一方で、我々はCDやレコードを買ったりすることによって音楽を物で所有することによって享受しているんじゃないのか。物として享受できないことだったら演劇とかの舞台芸術のようなもんのほうが、よりその精神的側面を重視してるのんじゃないか。それに加野瀬さんが挙げているように、音楽のセンス競争は、その非物質性よりも「iTunesのプレイリスト」や「DJ」といったような物の所有という場面において際立つようにも思われる。むしろ演劇などの舞台芸術はその所有の不可能性ゆえに、他人との競争が困難であるだろう。それではやはり、音楽のセンス競争の過剰さはその所有という側面において生じているのだろうか。
それでもしかし(なんだか議論がヤヤコシイが)、音楽のセンス良さをそれが録音された物によって証明できるかというとそうでもない。多くのレア音源を所有しているが全くクラブにもライブにもいかない人が、あまり音源を所有していないがクラブやライブによく行く人よりも常にセンスが良いとはいえないのである。というか、多くの音源を所有している人ほど、その音楽の所有という概念の儚さを良く知っており、クラブやライブといった場に出入りしたり、日常の生活の実践の中で「音楽の精神性」を声高に叫んだりしてるんじゃないだろうか。
つまり音楽におけるセンス競争の過剰さは、その精神性と物質性というダブルスタンダードによって惹起されているように思う。レコードやCDの所有することによって行われる卓越化と同時に、本当の音楽は物質としてではなく、精神として存在すると思うことにより、そのゲームが稼動しているのではないだろうか。
本当はこのエントリ書く為にブルデューの『ディスタンクシオン』での音楽への言及を参照しようと思ってたけど、その本を貸したままなんで自分の頭だけで判然としないことを今日は書いた。また今度、探してきて書きます。とりあえず卒論の資料として抜書きしていたところがあったのでそこだけ引用して終わっときます。

それはコンサートを通じて、ましてやレコードだけによって音楽に触れた人々が、つねに音楽にたいしていささか距離を置いた、傍観者的な、そして自ら望んでそれについて客観的に論じようとする傾向をもった関係をとるのと、はっきり区別される。これはちょうど、絵画をだいぶ成長してから、美術館のほとんど学校のような雰囲気のなかではじめて見出した人々が絵にたいしてとる関係が、はじめから美術品の満ちている世界に生まれた人々が絵にたいして保っている関係と区別されるのと、ほとんど同じことである。

ディスタンクシオン <1> -社会的判断力批判 ブルデューライブラリー
ピエール ブルデュー 石井 洋二郎
4938661055

118ページ

ここでブルデューが指摘しているのは、コンサートやレコードを通じて音楽を享受するものは演奏などによって身体的に音楽を享受するものよりも、好んで客観的に論じる傾向があるということ。そしてその傾向は絵画を学校などで教養として学んだものと、生活の中で美術品と触れ合って成長したものとの関係と同じだということ。
上の話に関係あるかどうかは、みなさんが各自考えてみてください。