中二病、高ニ病へのレクイエム2

前回は社●で勢いで更新したが、今回もカフェのネットの時間制限との戦いで勢いで更新するかも知れぬ。まあ続きが読みたいという声がごくわずかあるので書くとしよう。
「ジャンルはなんであれ、内容が良ければ良いよね」というか端的に「良いものは良い」という意見は、良く聞く言葉であるし、非常に素直な態度かもしれない。まあ「J-POPなんてだせぇよ」とか「日本のロックなんて偽者だ」と最初から決め付けるよりはそれはそれで健全な態度だと、俺も思う。(例がどちらも音楽になってるが、まあなんについても言えることだと思う。)
だがその態度の元にある発想は「我々はある対象を(外部の文脈などとは切り離して)ただそれだけで評価できる」という本質主義なのだ。その対象がたとえば食べ物の味とかなら、まあ俺も同意できるといってよい。(とはいっても食べ物の味に対する我々の評価が社会的に構築されていないということは極めて疑わしい
だが話が芸術などといった、高度に文化的に洗練されているものについては別だ。たとえば少し前にはてなダイアリーでちょっとばかり話題になっていたこういう議論がある。
http://cruel.org/diatxt/diatxt5.html
このエッセイで山形浩生スティーブン・ピンカーの議論を紹介し、人間の生物としての特性に密着した芸術を主張している。二人の意見は微妙に違う観点を持っているが、共通する視点は近代以降の芸術を過度な卓越化競争によって変質してしまった異形として批判しているところである。そのような知的選良だけが理解できる芸術ではなく、もっと認知科学的に理解ができる、言うならばもっと「自然な」芸術があるべきだという主張である。
この主張が現状のさまざまな芸術に対する不満から発したパフォーマティヴな提言なら俺も賛同するであろう。だが近代に端を発する「芸術」という文化的な現象を分析した結果であるならば、まったくの見当違いと言わずにいられないだろう。
谷川渥の美学の逆説などで述べられているとおり、近代における芸術の確立は、「味覚」という自然で生理的な判断から、「美」という判断を切り離すことによって徐々に形作られてきたものである。カントは「おいしい」といった味や「快い」といった感覚による適意と、あるものが「美しい」といった判断を明確に差別化することによって美的判断を作りあげた。つまり「芸術」という文化にとって生理的なもの、自然なものはその起源において排除されてきたものなのだ。
ところがここに一つの逆説がある。それは自然的なものから切り離されたはずの「芸術」に関する判断の基盤になる評価軸として、カントは「趣味(taste)」という言葉を用いたことである。「趣味(taste)」とはもちろん、もともとは味覚のことであり、西洋の哲学の歴史においてもっとも生理的なものとして貶められてきた感覚である。
山形浩生はこのエッセイの中でブルデューについて言及しているが、ブルデューが『ディスタンクシオン』の中でもっとも批判したのが、その起源において自然的なものから切り離されたはずの美的判断の基準を「趣味(taste)」と呼ぶことである。つまり文化的に高度に卓越化した支配階級は、実際には後天的に獲得した自らの美に対する基準を「趣味(taste)」と呼ぶことで、あたかも生得的な感覚として主張しているということである。
この点でこのエッセイから山形浩生ブルデューの主張を聞き逃していると言わざるを得ない。山形は千利休を例に「渋い」という感覚が多くの人に共有されていることで、その生理的な感覚の正しさを主張するが、俺は「渋い」なんて感覚が万人に生得的に宿ってるとは信じられない。そこにはやはり教育や環境といった後天的な因子が潜んでるに違いはない。ここでの山形は自らの感覚が「知的選良」として獲得したことを忘れているのではないのだろう。
そして俺は、中二病高二病といった言説とこのような芸術観に共通する「感覚の本質主義」のような態度はネット上で凄くよく見られることだと思う。それが「シニシズムのはてのロマン主義」なのかどうか分からないが、「良いものは良い」という一見、「無難な」態度が実はある種の抑圧になっているとさえ感じることは多い。確かに文化的な卓越化に見られるスノビズムはそれはそれでいやらしく、俺も好まない。しかし人間が人間であるために築き上げた文化というものは、このような差異の構造を不可分なものとして含んでいる。そのことにもうちょっと目を向ける必要があるのではないだろうか。
この話題はまた書きます。次回は俺自身の文化というものに対する考えを書こうかな。