批評とは?学問とは?

KーDUBのアルバムについての宮台真司のこのエントリ
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=110
から始まった以下の論争?*1
http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20040615#p1
http://d.hatena.ne.jp/ykurihara/20040627
http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20040704#p1
http://d.hatena.ne.jp/ykurihara/20040704
http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20040705#p2
についてこの2日くらい考えてみた。
普段ならどうでもいいとあんまり言及する気がないことだが、成城トランスカレッジid:seijotcpで行なわれている議論がどうも気持ち悪く何か変だと感じた故に書く。そもそも音楽雑誌で卒論を書こうとする自分にとってこの音楽批評をまつわる論争は考えてみる必要があると思う。

まず、本題から遠く離れたところから考えよう。この論争、社会学者である宮台真司が自らの音楽批評を展開したことから始まったものであるが*2、そもそも批評と学問の違いは何であろうか?
考えるにその違いは主に以下の3点であろう。*3

1批評に比べ学問は厳密さ、客観性を重視する。
批評においてはある種の主観的直感、記述が許される場合は多いが、学問においてはそのような記述は避けれるものとされる。また学問的な論文においては参考文献の表記は義務とされるが、批評においては必ずしもそうではない。
2学問に比べ批評はその対象に対する価値判断に重きを置く。
例えばバッハについての批評は基本的にバッハに対する価値判断を伴うが、バッハに対する学問的な研究は必ずしもバッハへの価値判断を伴わない。
3学問、批評それ自体の価値判断の違い。
学問的業績の学問的な価値とは、その厳密さと客観性によって保証された新たな真理の発見にあるが、批評の価値とは、その厳密さや客観性よりもその批評自体が読み手に与える感動にあると言える。その意味では批評もまた芸術と言える。

重要なことはこれら3点の違いは基本的には相対的違いであって、特に今回の音楽のような芸術を対象にした場合、その学問(美学)と批評(芸術批評)の差異は一筋縄でいかない、曖昧なものになる。
例えば、厳密さや客観性が学問並にある批評も現実的にあるし、対象の価値判断を行う学問もあるし、芸術的な感動を与える学問的業績もある、というように。
ある意味、芸術のようなものを対象とする場合、この二つの違いは客観性と主観性という1つの軸に対する相対的な位置によって決定されると言えよう。つまり、芸術を対象とする文章、思索のうちで、よりその客観性を重視するものが学問と呼べ、それに比べ主観性を志向するものを批評と呼べる。そして、それ自体の評価もまた、その客観性と主観性の軸によってなされるのである。
話を戻そう。例の宮台真司によるK-DUBについての文章は、常識的な観点から見れば学問と呼べるものではないし、宮台本人もまたそのように考えてる訳ではないだろう。よってこれはid:seijotcpによって「気鋭社会学者こと宮台真司氏がただ一人blogから世界(音楽批評界)に光を放つ不幸な時代」言われた通り批評といって問題ないのであろう。よってそれが批評ならば宮台の文自体に対する評価もまた、主観性をもったもので行なわれて良いものであると言える。
そこで件の論争を検討してみよう。
まずhttp://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20040615#p1では宮台の文章に対して「証明していく」や「音楽やその分析の意義」と書かれているのだが、これはある意味、宮台の文章を客観性を志向する学問とid:seijotcpの二人(面倒なので以後は単にidを示すだけにする)は捉えていることが伺える。それでも「音楽批評」と名をうっているので、学問的客観性を持った「音楽批評」と捉えているようである。そして、http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20040704#p1では宮台の文章に対する「俺のほうが知っているぞ」的なコメントや、http://d.hatena.ne.jp/ykurihara/20040627での栗原の「クソ」「見苦しい」などという表現を根拠がないと主張する。つまり、宮台に対する否定的な意見を「稚拙な揚げ足取り、野次、自慢話、無意味な煽り、バッシング」などと捉え、それらには根拠がなく、批判、反論にはなっていないと主張する。
ここでまず、確認しよう。先に述べた通り宮台の件の文章は常識的に見ると、厳密さや客観性をもった学問的と呼べるものではない。であるから、その文章自体を評価する人も同じく客観性や厳密さを伴う評価をする必要はないはずである。もし、id:seijotcpらがそれらの人に客観性や厳密さや根拠を示せというなら、まずは宮台の件の文書にそれらを求める必要がある。例えば、栗原がhttp://d.hatena.ne.jp/ykurihara/20040704で指摘しているようにどうして「日本中どころか世界中で真面目にHipHopやってるのを探したら、もうこの人しかいない」のか。それとも宮台の文から読めると思われる、http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20040705#p2でchikiが言う何が「大胆な図式化をしたときにこそ見えてくる」のか?さらには「「(ある見方をすれば)世界中でまじめにヒップホップやっているのはケーダブだけ(と評価できる)」という、批評的態度」とは何なのか?
私が此処から読める宮台の批評的態度とは、「学問的整合性はないが、ともかくオレにとってKーDUBは世界で一番マジメにヒップホップやってて偉い」というある種の批評に許される主観的なセンセーショナルな表現である。だからそれに対して「ともかく宮台の音楽批評はクソである」という栗原の態度もまた批評的態度であると言えないだろうか。



話を少し戻す。
学問と批評の違いは客観性と主観性という1つの軸に対する相対的な位置だとすれば、批評はどこまで主観性を強調できるのであろうか?全くの根拠なしの直感で与える自ら評価を、我々は「Xはスキ」と表現することがある。そして現代においてはそれは「趣味」の問題とされ説明責任を回避することができる。このような全くの「趣味」としての価値判断の言明を果たして批評と呼べるであろうか?*4
そこで、ジョセフ・マーゴリスによると、趣味とよばれる判断を二つに分けて考える。1つはたんなる好き嫌いの「個人的趣味(personal taste)」であり、もう1つはこの「個人的趣味」が一定の理由づけにおいて正当化され主張される「観賞判断(appreciative judgments)である。
第1のレベル「個人的趣味」ではそれらの主張によって人を説得することもできなければ、その主張を反論することもできない。だが、第2のレベル「観賞判断」では、その理由などによって説得や反論が可能になり、ある種の議論が行なわれる可能性がある。つまり、「個人的趣味」とは前述の軸の主観性における1つの極であり、「観賞判断」とはその極から幾分は客観性を持った判断とされるだろう。
さらに、個人的趣味はともかくとして、ある対象を社会やその対象の属する集団の中における価値観に照して、正当化する理由を提示しながら評価をするということも可能である。マーゴーリスはその価値観を「範例的ないし公共趣味(prevailing or official taste)」と呼び、その判断を「評決(findings)」と呼ぶ。つまり、これは客観性の極により近い判断であり、その正当化する根拠の提示の仕方によれば学問と呼んでもおかしくないものである。
それでは批評と呼べるものはどれであろうか?批評という行為がたんなる自己の感動表出でないかぎり、それはマーゴリスが言う「観賞判断」と「評決」がそれにあたると思われる。簡単に図示すると客観性と主観性の軸の間に
客観(理想的学問)--------「評決」--------「観賞判断」--------主観(個人的趣味)
となり、その間で学問と批評が緩やかに横たわってると思われる。
それではどの様な批評がすばらしいと、価値あるものとされるのか?やはり客観性の高い「評決」と呼べるような批評であろうか?私はそうとは思わない。なぜなら、客観性それ自体は学問を測る価値であるからである。それより客観性が低い「観賞判断」は確かに学問としての価値は低いであろうが、その「観賞判断」の客観性のレベルにおいては決して価値が低いとは限らない。つまり、その価値判断される当の判断自体の客観性のレベルによってその判断を評価すべきあると思う。
その根拠は先にあげた3つの差異における3番目の論であり、批評の根本的な目的は対象の価値を他の者に伝えるということであるからだ。我々はたとえ客観性が殆どなく、ほとんど個人的趣味と思われるような批評においてもその対象の価値が伝わったと感じることがある。そのような時、その批評自体を判断している批評もやはり個人的趣味に限り無く近いものである。例えば今回の論争のhttp://hobby.2log.net/loose/archives/blog20040624.htmlにおける五合氏の文章などは、ほとんど個人的趣味としか呼べないものであろうが、私の個人的趣味による判断からすると素晴らしいと言わざるを得ない。


さて、件の宮台の文章はどのレベルの客観性によって評価すべきであろうか。おそらく評決というには宮台自身のK−DUBへの個人的な思い入れが読めるので、やはり個人的趣味をなんらかの形で正当化した観賞判断だと言える。この観賞判断に対して私の観賞判断を行うと、やはりこの批評はお世辞にも出来が良いとは思わない。渋谷の変遷、自身の若いころの生活がK−DUBへの評価とどうつながるかわからない。自分の思いの強さをその批評の中に込めて、ある意味、力づくで納得させるという観賞判断という意味ではロッキング・オンなどでしばしば見られアーティスト批評と変わらないのである。そのくせに何事かを事実から敷衍してきたように、渋谷の変遷の話や自意識など話をするところは確かに見苦しい感じではあり、ロッキング・オンの批評のほうがまだマシなものが多い気がする。
しかし、この批評に対する評価自体はなんら宮台真司の学問的業績を傷つけるものではないし、本人も違うレベルのものとして書いていることは十分に分かっているはずだ。ところが成城トランスカレッジid:seijotcpで行なわれている議論は、宮台の文章を主観的に貶す者にはより客観的根拠を求めさせ、「日本中どころか世界中で真面目にHipHopやってるのを探したら、もうこの人しかいない」という点を論理的に批難するものに対してはより主観的レベルから肯定している。つまり、批判の内容によって評価するレベルを意図的にずらしているとしか思えないのである。これが私が感じた気持ち悪さの原因である。

追記:下のコメント欄で書いてあるとおり、この文章は別にid:ykuriharaさんの「クソ」や「見苦しい」といった明らかな侮蔑表現を正当化する意図はありません。基本的にid:seijotcp中での議論で宮台の文章に対する感覚的反応が封じ込められることに対する異論だと思ってください。

*1:実際には他のさまざまな所で議論が行われているが、わかりやすいようにこの二つのダイアリーについて見ていく。必要ならば他のURLを表記する

*2:ただし宮台自身が音楽批評と言ったわけではなく、それを取り上げるid:seijotcpで「気鋭社会学者こと宮台真司氏がただ一人blogから世界(音楽批評界)に光を放つ不幸な時代」と扱われた。この文章が音楽批評かどうかは重要な問題であるが、それは後に書く

*3:批評の定義及びその歴史的変遷については佐々木健一『美学辞典』の「批評」の項を参照せよ。

*4:ここでのマーゴリスの議論は西村清和『現代アートの哲学』の第8章から