この前の音楽思想研究会(6/24)

ブルデューの『芸術の規則』を読む第2回目。間が長いので内容は忘れかけだ。
まあでもあんまり言ってること変わんないので、難しくなかった。
議論になった主な点といえばやはし、「ブルジョワ芸術」と「写実主義芸術」の両方の否定である「芸術のための芸術」というのは本当に社会的な利害心を抜きにした欺瞞的な形式であるのかないのか、とか言う話。
まあ、たぶんアレはブルデューも本気で書いてるってわけではないよなやはし。芸術というものが自律的なものとして自明視される時代の人にとっちゃそれもまた欺瞞な感じするけど、単純にやっぱボードレールとかすごいと思います、撲自信は。
個々のアクターが自らの卓越化の戦略の為に行ったこととはいえ、最低限の年金で暮らしながら「芸術のための芸術」に殉教しようとすることは失敗することもありえただろう。そのリスクたるや、今のように芸術の自律性をなんともなしに受け入れてしまっている我々にとっては予想が付かないほどであろう。
それに比してポピュラー音楽に置けるアンチ商業主義みたいのが情けなく見えちゃうのってのも、そもそも自ら手にした自律性ではなく、あくまでも高級芸術のイデオロギー密輸だからなんだろう。
だから、そんな甘チョロイアンチコマーシャリズムよりも、「俺は社員に給料をチャンと払えてる」と言っていたイアン・マッケイのほうが死ぬほどかっこいいわけである。
ちょっと古いけどコレね
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0404/15/news038.html

あとブルデューエスプリが利いた注をまねて
宮台真司がK−DUBを心理小説として読んでいるのを見ると、いささか意地の悪い喜びを覚えずにはいられない」