>栗原さん
とても参考になりました。ありがとうございます。コメント欄は書きづらいのでここに書きます。

89年から90年にかけてで、ローゼズをめぐって両誌に対立構造があった(たしかにあった気はするがよく憶えていない。というかROが煽っていたのは憶えているが、そのころMMがどうだったかの記憶がないっす)としたらこの「論争」(?)が影を落としている可能性もありますね。

確かに増井/鳥居のローゼス論争は、同時期の渋谷/中村論争(?)の代理戦争的な部分があります。面白いのは、渋谷/中村がまともな論争に発展せず、すれ違いにより収束したのと同様に、増井/鳥居論争もローゼスを評価するもの同士の「内ゲバ」としてすれ違い、立ち消えていることです。
僕が卒論で書こうとしているのは、その一見同じようなローゼス評価(60〜80年代の音楽を併せ持つ)が、ロック内のイデオロギー(雑食性や革新性)によるものか、ハウスのイデオロギー(DJ文化的なセンスやサンプリング的発想)によるものかという違いによって起こったのではないかということです。ローゼスのライブの評価に関しても、ROは「彼らのライブはレコードの比ではもうゼンゼン、ない」*1「ライブと切り離しては考えにくいバンド」*2など、ロック的な「ライブ文化」と結び付けているのに対し、MMは「アーティストのカリスマ性をなくし、客との壁をとり払って一体感を作り出す」*3「通常のロック・コンサートにレイヴの雰囲気を取り入れようとする試み」*4というあくまでもハウス的なものとして捉えています。この辺を南田さんの本や増田さんの論文から説明していき、その発展として「本質主義」「戦略的本質主義」を主張できたらなーと考えています。

渋谷陽一中村とうよう吉本隆明の影響下から批評活動をスタートしており

これについてはNW氏からも指摘いただいたこともあり、良く言われることらしいですが、あまり調べていません。元編集長の思想で雑誌の言説を決め付けるのも乱暴ですが、僕もある種ROとMMの対立は近親憎悪的な匂いがするので、調べてみたいと思ってます。
ともあれこのローゼス論争のあとMMとROには論争は見当たらないので(最近のことは知りませんが・・・)、この後、増井を引きつづき岩見のマニックス騒動から更なる妄想に走る(妄走)ことを考えても、日本のロック批評の一つの転換期にあたるのではないかと思います。
希望はやっぱ「音楽雑誌が書かないJ-POP批評」とかじゃないすか(笑)。

*1:RO89年10月号、46P、山下えりか

*2:MM90年3月号、83P増井による鳥居への反論

*3:MM91年2月号、90P、小野島

*4:MM95年1月号、79P、小野島