最近の音楽研究関連本

すでに読了して時間がたつが、読書メモをつくっていて時間がかかった奴など。
ニュージャズスタディーズ -ジャズ研究の新たな領域へ- (成蹊大学アジア太平洋研究センター叢書)
宮脇 俊文 細川 周平 マイク モラスキー
4903951308
 
ニュー・ジャズ・スタディーズは、新しいジャズ研究のアンソロジーである。とはいえ、一般人にとって「新しくない」ジャズ研究自体も知られていないため、どのへんが新しいかについては判然としないかもしれない。その点は、主たる編者であるマイク・モライスキーのイントロダクションが説明しているが、それでもやはり多くの人にとってジャズ研究の新しいも、古いもわからないかもしれない。
一応、モラスキーのまとめによれば以下の5つの点が特徴である。

  1. 社会的・歴史的変容重視
  2. アフリカン・アメリカンの歴史重視/二項対立的人種観回避
  3. 進化論的歴史観の否定
  4. ジャズメン神話解体
  5. メディアの機能に対する考察

音楽研究者の端くれとして、これらまとめていえば、いわゆるニューミュージコロジーのジャズ版、つまりこれまでの音楽研究が作者や作品としてのテクストだけの研究だったとするならば、その視点を相対化して、より文化や社会といった文脈、歴史の中でジャズを扱うという研究がニュージャズ・スタディーズなのだろう。
ニューミュージコロジーが学際的なものであるのと同様に、ニュージャズ・スタディーズも学際的なものである。学際的であることを良しとするか悪しとするかは、一概に言い切れず、個別の研究を観るほかないが、このようなアンソロジーの形では、結果的に雑然とした印象を与える。これはこの本の扱う領域が幅広いということでもあるが、論文としての甲乙も様々であるということだ。
本書が扱う内容は目次とかを見ていただくとする。結果として日本人がこの本のために書き下ろしたものは他の物にくらべて論文というよりエッセイに近い。一般向けにはそのようなものも良いかもしれないが、専門書としては邪魔であるというか、無駄に値段を高くしている感がある。できれば、入門者、一般向けと専門書を別にしてほしかった。
論文として非常にすぐれているものは、歴史研究としてはスコット・デヴォーの「ジャズの伝統を構築する」、デイヴィッド・エイク「ジャズの歴史叙述とルイ・ジョーダンの問題」がまず挙げられる。両者とも、ジャズがニューオリンズジャズからスウィングへ、バップ革命とクールの誕生、そしてフリージャズとフュージョンという崩壊のような単線的な歴史を反省させる内容となっている。まあでも、そういう歴史を知っている人自体が恐らく少ないので、インパクトが強いかといえばそうでもない。このへん、ジャズの正統的な歴史が成立しているアメリカと日本での受容の温度差は大きいといえよう。
また演奏研究ではイングリッド・モンスン「音楽・言語・文化的スタイル:会話としての即興」は、私がちょうど読んでいた彼女のSaying Somethingの抄訳である。この著作自体が素晴らしいジャズ演奏の研究であり、訳された部分も一番重要な章であり、これを日本語で読むだけでもありがたい。でも、やはり抄訳ではなく、本を全訳してほしいと思うし、このようなアンソロジーの形で加えられるのは少し残念である。
その他パンク、映画、文学、ナショナリズム、黒人研究、日本の〈音響〉系と、話題は本当に広い。これらのテーマに引かれる人も多いと思うが、3200円出すとなると、逆に手を出す人が少なくなりそうだ。アンソロジーはなかなか難しい。
それぞれの論文についてまたコメントするかもしれないが、とりあえず全体としては以上。
次はこれ
別冊「本」ラチオ SPECIAL ISSUE 思想としての音楽
片山 杜秀
4062164930

講談社のハードコア思想誌のRATIOの音楽特集。まあ音楽特集だけあって、そのハードコアさは低くなっており、片山杜秀編集ということでそこそこポップに落ち着いている。とはいえ、雑誌だから仕方ないとはいえ、内容の出来の差が烈しい。もちろん、読者のレベルに合わされるのが難しいとはゆえ、いつもながらのハードコアな内容に統一して欲しかった感は強い。
特別に興味深かったものだけについて書くと、片山杜秀菊地成孔許光俊の二つの対談はそれなりに楽しめたし、「「いい音」は普遍か?」と題された井上貴子、荻原和也、谷正人、野川美穂子、平尾雅子、皆川厚一、片山杜秀による誌上シンポジウムは、それぞれの民族音楽の知見の深さ故、多くのことを初めて知った。片山氏はそれぞれの対談において、どちらかと聞き役に回っているため、独特な片山節を期待するとすこしはずれるかもしれない。とはいえ、結果として菊地成孔許光俊のアクの強さ(逆に言えば片山氏の天然っぽさ)が強くでている。
論文、論考では、身内ボメのようになるがやはり日本ポピュラー音楽学会関係者方々のものは良いし、研究に参考になる。逆に言えば、音楽を語ることに関する専門家と非専門家の意識の違いは大きいと改めて思った。別にどっちが偉いということはないが、求めているものはかなり違うものだ。
個別にコメントすれば、大和田俊之「反復と制御―ポピュラー音楽における<黒さ>について」は黒人音楽を安易な黒人性として語らず、その反復と制御という特徴性をDu Boisの「二重意識」の議論とつなげ議論したもの。最後の方で、監視社会化の議論はかなり飛躍した話であり、個人的には、どちらかというと、日本に未だきちんと紹介されていない黒人研究の基礎的な議論をある程度、教科書的に書いてくれたほうが嬉しかったと思った。
輪島裕介「《東京行進曲》《こんにちは赤ちゃん》《アカシアの雨がやむとき》−日本レコード歌謡言説史序説」は、以前書いたこの本につながる内容。日本のレコード音楽がその批評と思想の場でどのように扱われてきたのかに関する詳細な言説史であり、新書の第三部の内容に相当する。今では考えられないが、基本的に流行歌やレコードに録音された音楽は60年代までいかがわしく、盛り場的で、卑猥なものと考えられてきたことは非常に興味深い。
谷口文和『レコード音楽がもたらす空間−音のメディア表現論』は最初読んだときは、なんだ知っていることばっかりだと思ったが、読み直すといろいろと新たな議論が出てくる重要な議論であると認識した。レコード音楽をマンガや映画などと同様、録音メディアをその表現に持ち込んだメディア表現であるとして、その表現技法を録音技術の及ぼす効果、特に空間的な効果に着目して議論する。ただ具体的な議論以上に、その前提を押さえることに費やされるため、今後もこの方向で録音された音楽独特の表現について自分も議論していきたいと思った。個人的に非常に感銘を受けた場所は、スネアドラムをゲートリバーブ使い録音した音響がもたらす効果について

少々強引にたとえるなら、それは背景の描写を大胆に省略し、登場人物の存在感だけを際立たせた漫画、とりわけ四コマ漫画に典型的な空間表現に通じるものがある。
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という話。もちろん、本人が自覚しているとおり、これは比喩的な問題なのだが、非常に納得がいく。ゲートリバーブによるスネアの音は、スネアの音としての残響成分を十分に残しながらも、曖昧なアンビエンスやノイズ成分をカットした結果、「楽器音のデフォルメ」的な効果が発生すると思われる。いわば、三次元を二次元に縮約するがごとく、ゲートリバーブのスネア音はリアリズム的なレコーディング音響からある程度の抽象化を行ったキャラクターづけがなされているように思われる。この楽器音のデフォルメは、シンセによって楽器をエミュレートするときにより際立ち、実際の楽器音からかなり外れたキャラクター付けがなされるのは、まるで萌絵が人間の顔から逸脱している状況のようだ。
ポピュラー音楽における個別の作品の分析や表現法の特徴については、日本のアカデミズムではほとんど議論されていない。それは、一般の聴衆がレコード音楽におけるメディアの効果を透明なものと思い込んでいることにも一部起因するが、学問的な怠慢でもあるように思えるので、今後積極的にやっていきたいと思っている。

この本、売れ行き自体は良いらしい。ただ重版はしないので、興味を持つ方は、早めに買っておくと良い。他にもブログエントリがあったので貼っておく。
http://miminowakuhazushi.dtiblog.com/blog-entry-80.html(福島恵一氏のブログ)