音楽関係新書

読んだもの
未来型サバイバル音楽論―USTREAM、twitterは何を変えたのか (中公新書ラクレ)
津田 大介 牧村 憲一
4121503708

まずは話題の新書。いまをときめく津田さんと音楽プロデューサーの牧村憲一さんの共著。
内容は両者の対談の部分と、津田さんの音楽産業に関する概観と、牧村さんの関わってきたレーベルに関する貴重な証言。津田さんの部分は、直接本人のお話で知っていることが多かったので、牧村さんの話のほうが個人的には興味深かった。
牧村氏はなによりも渋谷系の牙城、トラットリアに関わったことが大きいが、その他にもフリーのプロデューサーとして様々なアーティストやレーベルに関わってきたらしい。まさに70年代からの日本のポピュラー音楽、歌謡曲からJ-POPまでの業界の生き字引で、特定のレコード会社に属さないフリーという立場からの証言はとても興味深い。とはいえ、個人の見方には限界があるというか、業界の人と外の人ではだいぶ認識が違うなーって思うところも多かった。特に彼の渋谷系という流行に関する醒めた目線は、90年代の邦楽にこだわりを持つファンにとってはちょっと意外というか、それはないなーって思うかもしれない。まあ、私はむしろアンチ渋谷系なところあるからどうだっていいんだけど(笑)。例えば、トラットリアに関する今でいうところの特典版みたいなものについて

そういう遊びでいうと、本物のレコードと音は変わらない、シングルサイズのラジオエディットだけを無料の付録で付けたことがあります。音源は同じであるのに、特別の形態で聴くと、付加価値があるような気がするのです。もちろんリスナーも変わらないことを知っていて、遊びの約束事として楽しんでいた。
(95)

ここ以外にも彼は制作者とファンの共犯関係というか、遊びごとを遊びとわかって楽しむことを強調しているんだけど、少なくとも田舎で渋谷系に熱を上げていた人はそんなにシニカルな態度ではなかったのではないだろうか。こういう理想的な共犯関係って本当に少数の人しか共有できないものであったように思える。続く箇所で

10年8月、渋谷HMV閉店時の祭りには、ある種の醒めた興奮がありました。また、渋谷系の聖地が消えたと言うマスコミの常套句には呆れ果てました。
いつからこんなふうに記号化してしまったのでしょうか?
(95)

と言うのだが、たしかにHMVの閉店はマスコミで話題になり祭りみたいなもんであるし、ノスタルジックなまなざしがあるのかもしれないが、一つの流行を築いたとしてもそれが一人歩きするのはなんでもそうだから、なにもそんな醒めたこと言わんでもとは思った。いつから記号化って、最初からカタログナンバーつけて記号化しようってしてたのではとかおもってしまう。
結局のところ、産業側とファンの側って思った以上に距離があったのではないか、それがツイッターUstreamで今後どう変わっていくのか、そういうことを考えながら読んだりした次第。でも産業や作り手とファンがあまりにも距離を詰めすぎるとそれはそれでなんだかツマンナイ文化になりそうな気もする。例えば、津田さんはこう言う。

インターネットでつながりやすくなり、メディア環境自体がどんどん変わったことで何が起きたかというと、単に商品とか情報を売るというよりも、コミュニケーションに注目が集まったことですね。音楽を売る一方、アーティストとコミュニケーション自体が、商売になっている。もちろん昔からそういう要素はあったのですが、ビジネスのサイズがより小さくなったことを含めて、その部分がむき出しになってきています。
(145)

たしかに、今後ファンクラブのようなものが音楽のビジネスモデルの一つとなりうるとは思うのだけど、基本的にコミュニケーションってそんなに味わいの深いものでもないし、面倒だったり、ウザかったりするわけで(笑)、津田さんもこのコミュニケーションが商品になることを手放しで賞賛しているわけではないんだが、やっぱり精魂込めて作られたレコードを一人自室で聞くというような消費形態の魅力は依然としてある。少なくとも俺には。ただそういう聴取、まさに自分が書いた「軽薄な聴取」の真逆なんだけど、そういう重厚な?いやなんていうのそういう真剣な聴取を楽しむ能力というか、その楽しみ自体を知らない人が多いのかもしれない。そしてその楽しみを教えることは、音楽産業論を超えた問題であって、まさに音楽の美学やなんかが活躍できる領域なんやろーかと自己正当化したく思っております(笑)。


次はこれ。
創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 (光文社新書)
輪島 裕介
4334035906

私の先輩、輪島さんの初の単著!!前評判がよかったからどんなもんやろーって軽い気持ちで読みましたが、これは名著です!まさしく渡辺裕直系の音楽学と言うべきなのでしょうか、多大な資料をよくぞまとめたって感じであって、本当に感服した。
さてあまり大絶賛の文句ばかりたれながしても、先輩へのゴマスリに見えるので(笑)、内容について軽く触れておく。最初のほうに本の内容が簡潔にまとめられている。

「演歌」という語が1960年代(むしろ昭和40年代というほうが正確でしょう)に音楽産業の中で一つのジャンルとみなされてゆく過程と、それが「真正な日本文化」として高い評価を得てゆく過程は相関しています。というよりむしろ、ある種の知的な操作を通じて「演歌」というものが「日本の心」を歌う真正な音楽ジャンルとして新たに創り出されたのです。つまり、「演歌」という言葉を「日本の心」と結びつける、その知的・言説的な操作を明らかにすることを通じて、先の小林の疑問に答えることが本書の目的です。
(15)

要するに我々一般人の思う「演歌」のイメージがどのように創られてきたのかを明らかにするのだが、それとともに戦後の日本の大衆音楽史のひとつとして素晴らしい解説がなされている。日本の音楽産業論については生明さんのポピュラー音楽は誰が作るのか―音楽産業の政治学が先鞭をつけたが、輪島さんのこの本はそれらの産業論的知見をまとめた上で、音楽分析や言説分析によってさらなる成果を示してくれる。
ただ第二部、我々の「演歌」イメージを創り上げた音楽的な諸要素についての概説は、固有名詞の嵐であり、日本の歌謡曲・演歌の教養なしには容易くよめない。このまとめhttp://d.hatena.ne.jp/conchucame/20101016/p1とか参考になると思いや、ほとんどyoutubeにアップされたものは削除されているから(まあそりゃそーだw)適宜自分で検索したり、なんとか音源にあたらないとなかなか読み下せない。手っ取り早く内容だけを理解したい人は、第二部は飛ばして第三部を続けて読んだほうがわかりはよいかもしれない。
さて一つだけ異論というか、それは言い過ぎではないかと思ったところについて触れよう。輪島は日本の音楽産業の形態によって、三つの時代区分をしている。作曲家・作詞家がレコード会社専属制度の時代、フリーランス職業作家の時代、J-POP以降の時代。この区分自体は十分納得がいくもので、日本の大衆音楽を考えるには有用な観点であるが、問題は日本にロックが及ぼした影響がどれほどばかりかについてである。特に、90年代以降の日本のロック言説では、ビートルズ来日の影響を大いにうけたグループサウンズ、つまりGSが日本のロックのルーツとして非常に重要視されている。これに対して輪島は

つまり、ロックをはじめとする同時代の米英の若者向け流行音楽の要素は、専属制度の解体期に、非専属の職業作家による音楽制作の参照先の一つとして取り入れられたと考えるべき、平たく言えば「ロックが日本の音楽を変えた」というよりは、「日本の音楽産業の転換期にロック的な要素も導入された」と考えるべきです。
(38)

と主張して、ロックとGSの影響を非常に少なく見積もっている。しかしながら、第一に、たとえロックが日本の音楽産業構造を変えたわけではなくとも、GSは日本のロックのルーツと主張しえること、第二に、なぜ専属制度からフリーランス作家の時代への変化がこの60年代にあったのかという理由はやはりロックンロール以降のベビーブーマーたちの消費行動から説明されるのではないか、という反論がある。もちろん、前者の主張はGSを日本のロックの起源として措定するという多分に政治的美学的意図のある言説であろうが、端的な事実誤認ではありえない。後者に関しては、なぜこの時代に音楽産業構造が変化したかを、他の点で輪島は説明しているようには思えないので、やはりこの箇所は言い過ぎに思える。
ただ、それはともかくも、日本の演歌の創出、それはつまり西洋からの影響から無関係に思える土俗的、卑属的、大衆的な文化を持ち上げること、そういう文化左翼的(新左翼的)な対抗言説がこの時代に現れたという話は、音楽に限定されない興味を覚えるものであろう。この点からも、この本は戦後の日本文化史を考えるための必読書だと言えるだろう。