演奏研究とか

鍵盤を駆ける手―社会学者による現象学的ジャズ・ピアノ入門
D. サドナウ David Sudnow
4788504375

日本語版の表紙がないので原著も。
Ways of the Hand: A Rewritten Account
David Sudnow Hubert L. Dreyfus
0262194678

リライトしているらしいけど、どうなっているのか気になる。
エスノメソドロジーによる音楽研究で日本語で読めるもの、というセレクトで本書を手にとったが、裏切られたというか期待と違ったというか、なんつーかこの本、奇書だと思う。エスノメソドロジーというよりも純然たる現象学的記述といったほうがいいのかな(それはそれで現象学者から怒られそう)。ともかく、一人でジャズピアノのレッスンをしている話が延々と書かれる。
まあ面白い記述がないわけではない。例えば、サドナウが尊敬するジャズピアニスト、ジミー・ロウルズ(またこの人マイナーな伴奏者なんだよね。でもyoutubeで聞いてみたらすごくよかった)の演奏の仕方を真似してみると、(運指とかそういうレベルじゃなくて、手や腕の姿勢まで)ジミー・ロウルズ風の音色が出せたとか。まあ当たり前といえば当たり前だけど、クラシックに比べてプレイヤーの身体性が強くでるジャズは、演奏の姿勢とかが重要だったりと。モンクっぽく弾くなら重い指輪をはめるとか。
さて本文よりも付録でついてた訳者の三人方と山下洋輔相倉久人の鼎談のほうがまとまっていて面白い。山下洋輔はサドナウの記述をよくわかるとか、彼が右手のことしか考えてない、ジャズのリズムセクションの重要性を無視しているなどと批判しているなどと結構ざっくばらんに言っている。他にも、この本の後、サドナウはサドナウメソッドとか言い出してジャズレッスン始めたらしい、とかも書いてあって本書の奇書っぷりに拍車がかかってる。

ピアノを弾く身体
ピアノを弾く身体岡田 暁生 近藤 秀樹 小岩 信治 筒井 はる香 伊東 信宏 大久保 賢 大地 宏子

おすすめ平均
stars音楽学に失われた視点の再提示
stars視点の提供にとどまる

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お次はこれ。すごく評判が良い本であったし、私のような立場にある人間ならとっくに読んでいなければならなかった本であるが、怠慢にして今頃読みました。読んでもやっぱし面白かったし、良書です。ピアノを学んでいる人やクラシックで楽器をやる人は必読です。
全体的に面白かったのは運指と作品解釈の第一章、日本におけるハイフィンガー奏法の普及の話の第三章、あとヴィルトーゾに論じたところあたり。ハイフィンガー奏法ってのは19世紀末にはヨーロッパでは廃れてしまったやつなんだが、指を曲げて高いところから打ち下ろす奏法。ところがこの奏法、音楽の響き的にも指の安全的にも良くないのに、現代の日本のピアノ教育でも未だに残っているという。その辺の理由を日本のお稽古の家元制度、修身主義から説明していたけど、クラシックの奏法に関して後から見たら滑稽なことって結構あってそういうのはネタとしてはかなり面白い(古楽のラウンドボウ?
だっけ、ああいうの)。しかし、どうもこのハイフィンガー奏法ってのは冗談のレベルじゃなくて、今でも普及してたり、この奏法を極めてヨーロッパに渡ったら、ダメ出しされまくったとか、喜劇以上に悲劇で。。(これ参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E9%87%8E%E4%B9%85_%28%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%88%29
以下、美学的なトピックとして気になった点。
第一章、大久保賢「作品解釈としての運指」

同じくベートーヴェンの作品で似たような例を探せば、例えばピアノ・ソナタ第29番〈ハンマークラヴィーア〉の第一楽章冒頭もそうである。ここでは左手でしっかりと最初の変ロ音を鳴らしたあと、素早く二オクターブの跳躍をこなし、次の和音をがっちりとつかまなければならない。この跳躍を嫌って、最初の音を右手でとったり、あるいは次の和音を右手で弾けば、確かに難しさは著しく減るが、効果や表現力が大きく異なってくる。唐突な比較かもしれないが、ストラヴィンスキーの《春の祭典》の冒頭のファゴット・ソロを、同系統の楽器であるイングリッシュ・ホルンで置き換えた場合を想像されたい。このソロで使われる音域はファゴットにとってはかなり高い音であり、それゆえ演奏が難しい。他方、イングリッシュ・ホルンならば、とりたてて難しいものではなく、楽に吹けるフレーズである。だが、前者にとっての「難しさ」からくる緊迫感こそがこの音楽にとっては重要なのであり、いくら楽に演奏できるからといって、それを後者に置き換えることは許されない。アラウがベートーヴェンソナタについて言うのも、まさにこうしたことなのである。
(40-41)

作曲者の運指の指定に対するコンプライアンスがどの程度、作品の同一性にとってレレバントであるかどうかって問題は英米の美学ではあまり問題とされていないかったので、啓発的な指摘。後者の楽器のコンプライアンスについては、大方の美学者はクラシック作品としての同一性の基準に楽器編成も含まれることで(概ね)一致している。しかしながら、平易な運指にすると効果が表現が変わると言い切っているのはちょっと断定的すぎる。もちろん、普通我々は演奏の風景を見ているから、運指が変わるとそこから受ける印象は変化するだろうが、ブラインドテストをしたらどうだろうか。まあそれでも若干のニュアンスが変わることは予想できるけど、すくなくとも運指のやり方と音の響きは、論理的には一対一対応しているわけではない。