休日の読書

昨日は一日休日にした。院生生活は自分で区切る必要があるからめんどうだ。俺的には有給の気分であったが、もちろん実際の有給を体験したことないし、給料なんぞ舞い込まないのでアレだ。まあ今週末が、若手哲学フォーラムとかで犠牲になるのを見越した自主休暇です。
で、知人のすすめ、恋人のすすめもあってこれ昨日かって読んだ。
ルポ 差別と貧困の外国人労働者 (光文社新書)
安田 浩一
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日本で働く外国人労働者の窮状にせまったルポルタージュ。一つ目は中国人労働者のいわゆる研修生問題。二つ目は日系ブラジル人リーマンショック以降の派遣切り問題について。
著者は今はフリーのジャーナリストである。なかなかガッツのあるジャーナリストで好感を持てた。
ルポルタージュなので労働問題に関する考察などはないのだが、日本の外交人労働者の様々な問題点が浮かび上がってくる。積極的な解決策なども提案されてないが、この本はまず現状把握として読まれるべきなんだろう。
どちらかというと最初の中国人の研修生問題のほうが卑劣というかヒドい話。中国と日本の双方のあくどい派遣事業者がグルになって働く意欲のある中国人に対して搾取、暴力、セクハラ、差別なんでもござれ。米国から人身販売として非難されても仕方ない現状があったのは間違いない。たぶん今は少しはまともになっているとは思えど、研修生制度はどう考えても歪んだものになるので、抜本的な法改正の必要がある。
二つ目の日系ブラジル人の派遣切りの問題は、どちらかといと我々のナシュナル・アイデンティティについて再考させられる内容だ。そもそも多くの日本在住の日本人はブラジルに日系移民の子孫が150万人もいることを知らないのではないだろうか。彼らの先祖は基本的にブラジルに出稼ぎにいったわけだけど、現地の過酷な労働と戦いながら結局、定住化した結果、ブラジル内に日系コミュニティが成立したのである。そして1989年の法改正と共に、彼ら日系ブラジル人は日本に職を求めてデカセギに来ることになったが、彼らの多くはリーマンショック移行の不況によって現在無職の方々が大勢おり、また児童の未就学問題など様々な問題がある。問題の原因はマクロには不況や法制度などにあるが、ミクロな部分では日系ブラジル人と日本人の断絶がある。日系ブラジル人は長い間ブラジルでの同化の過程で独特なコミュニティとその文化を身につけた結果、日本語がそれほど堪能ではないし、メンタリティも日本人とは異なるものとなった。日本人はいまだ外国人に対して無関心であり、彼らが日本人の子孫であることもあまり考えないようだ。
もちろん景気対策や法制度の改革、教育による底上げなどマクロでトップダウンな対策は必要であろうが、我々個人としての日本人に求められることは、ナシュナル・アイデンティティの再考である。日本人は安易に単一民族国家という神話を信じてしまいがちだが、実際のところ単一民族国家などどこにも存在しない。日本は国内にそもそも多様性を抱えている。これは知識人たるもの、ある程度の教養のあるものには当然のことだ。だが、同様に日本人とされてきた人々が国外においても存在して、彼らが独自なコミュニティを作りながらも日本というナショナルなアイデンティティを持ち続けることも忘れてはならない。実のところ、黒人やユダヤ人に限らず、ほとんどの人たちに多かれ少なかれディアスポラの歴史は存在する。日本の人々が「日本人」としてのアイデンティティを誇示するならば、彼らに対する配慮を忘れてはならないだろう。
最後に、日本における外国人労働者問題について。現状日本は単純労働の外国人の受け入れを拒否してきている。しかしながら産業界は長らく人手不足であり安価な労働者を求めている。その矛盾した状況が研修生問題などに表れているのだが、現在の世界の趨勢を眺める限り、日本が外国人労働者を受け入れていくことは必然であるように思われる。結果として日本の労働市場は供給が増え、若年労働者が外国人労働者と競争、または共存せざる得ない状況が訪れるのは間違いない(というか都市部のコンビニではなし崩し的にそうなっている)。
そこで求められるのは、外国人労働者の受け入れに対する規制緩和と労働条件その他の規制緩和だが、後者は卑劣な派遣業者の私利私欲によって悪用されることもあるのでなかなか難しい問題である(以前、私自身、派遣のバイトでヒドイ仕事させられたこともある。さらに派遣先を言わないことという命令を受けたことがある。明らかに二重派遣である。だいぶたつから晒すがフルキャストである。)。しかしながら、労働者の需要と供給に答えるために一定の規制緩和は避けられないので、それを補完するセーフティーネットを行政の側が用意するとともに、労働者もまた構築していくべきなのだろう。具体的にはフリーターを含む労組が外国人労働者に対しても連帯していくべきなのだろうが、そこでの文化的な衝突は予想される。その衝突の緩衝材としておそらく両国民の理解と交流が必要であろうが、私が普遍性や世界性を志向する「アート」と呼ばれるものに期待するのはこういうときに緩衝材として機能する役割である。残念なことにそのような役割を果たそうという意思のあるものは見当たらないのだが。。