図書館から催促きたからぱぱっと

これ読んだ。
ネットワーク・ミュージッキング―「参照の時代」の音楽文化 (双書音楽文化の現在)
井手口 彰典
4326698632

勁草書房さんのポピュラー音楽研究関係の双書。日本語ラップの木本氏の本につづいて刊行されたもの。木本氏の本はこちらを参照。
http://d.hatena.ne.jp/shinimai/20100605/p1
タイトルから中身を推測しにくいんだが、要するにIT技術が進歩した現代における音楽聴取についての研究書です。といってもそんなに難しい内容ではないので、ITと音楽ということに興味ある人にはおすすめ。とくに昨今のクラウドの話に近いことが書かれているので。
全体的には、新しい技術と現象について良く調べてうまくまとめた本だと思う。学問的な研究では新しいことは非常にやりにくいのですが、この本はヘタにジャーナリスティックになることなくバランスが取れてると思いました。様々な現象に関する理論的、哲学的な探求については不満が多く残りましたが。特に、自論を主張するための議論が多少強引に感じるところが見られた。以下、細かいコメント。
第3章のデジタルとコピーという言葉の分析について。コピーが「複数性」の問題と不可分なのは良いとして、デジタルによる情報が本質的に不可算であり、複数性をもたないというのは納得がいかない。情報は確かにどのような物質的な媒体(物理層)に宿ろうが、同一のパタンとしてみなせるだろうが、それを以て不可算であり、複数性をもたないというのは違和感がある。端的に情報はトークンではなく、タイプであり、普遍者であるというならわかるが、これを不可算、非複数性とする議論は「デジタルコピー」という言葉を不自然なものとして扱いたい筆者の動機による人工的な操作に感じる。よって、コピーとデジタルが本来的に相容れないという主張も理解できない。ただしこのツッコミは本論の全体の主張を阻むものではない。ただ情報という概念のつかみかたに、私が異論を呈しているだけである。
次に第5章の〈リスト〉に関するところ。井手口はウィニーに見られるようなピュアP2Pにおける参照可能な情報の〈リスト〉を、当該情報がウェブのどこに存在するのかは問わない、ただ利用可能な状態にあるだけで所有を無意味化するものと特徴付ける。さらにそのような〈リスト〉は個人の把握能力の限界に達しているが、人々はそのような過剰に自由な取捨選択ができる音楽文化の状況にアパシーを感じるのではなく、「無数の選択肢のなかを次々と、軽やかに渡り歩いてい行く」と述べる(153)。
これはちょっと楽観的だと思う。iTunesなどのライブリラリソフトが登場してきたとき、人々はその利便性を感じるとともに、趣味がリストの形で顕在化することに恥らいを感じてもいた。大分昔で記事を参照することはできないが、たしかアメリカの学生の間でiTunesのプレイリストにある「恥ずかしい音楽」(たしかBLINK182などが例としてあげられていた。かわいそうにww)を削除して、ジャズのような「おしゃれな音楽」を顕示的にプレイリストに載せるという現象があったと聞く。iTunesは情報をローカルに保存しているわけだから〈リスト〉と呼べないかもしれないが、たとえクラウドの向こうの膨大な〈リスト〉を我々が持ったとしても、その一部ローカルでパーソナルなリスト化を行う可能性は否定できない。そしてそこにはやはり顕示的な欲求や圧力は存在し続けるだろう。
この観点からの批判は、第6章において「音楽配信において我々が聴く個々の楽曲には、ステータスや担保といった欲望する他者の存在を前提とした価値の上乗せが起こりえない」(172)という主張にも当てはまる。井手口は、これまでの物理的な録音物であるCDなどは、その情報財としての価値だけではなく、それが与えるステータス、顕示的な幸福感によっても価値が与えられていたと考える。確かにそうであろう。だが、そのようなステータスや顕示的な欲望が音楽配信サービスによる音楽の流通にはないと考えるのは言い過ぎだろう。サブスクリプションサービスなどによって豊潤な音楽を得ることは確かにできるが、我々はそれでも何らかの形で自らのコレクションを追求するし、そこでは顕示的な欲望やステータスは残り続けると思われる。
井手口のある種の楽観主義的な側面は、第7章にも現れている。

聴くことがこれまで担っていた役割のいくつかが、そこでは明らかに機能しなくなるだろう。もしかしたらそれは、聴くことの純化と呼べる現象なのかもしれない。「私」をアイデンティファイし価値付けるためのツールとしてではなく、ただそこで鳴り響くものとしてのみ音楽を捉え、「私」を巡る諸々の戦略から離れたところで静かに耳を傾けるような、より純粋で打算のない聴取。(203)

もちろん井手口はこのような聴取がすぐにも現れることを主張しているのではない。ニコニコ動画などに没頭する人々の軽やか(軽薄とも呼べる)聴取を前兆的な例として可能性を述べているに過ぎない。
私も昨今の若者にCDやレコードを集中的に聴くよりも、ザッピングするように聴く傾向が存在するのを体感している(フェスでの感想をここで述べたhttp://d.hatena.ne.jp/shinimai/20100415/p1)。それは渡辺裕が『聴衆の誕生』で述べた「軽やかな聴取」のさらなるバージョンのようなもので、良い意味でも悪い意味でも「軽薄な聴取」であるだろう。しかし、そのような聴取が主流になってきても、それが純粋な聴取だとはいえないし、上述したとおり、そのような軽薄な聴取においても「戦略」や「打算」は存在しうる。ソーシャルブックマーク、マイリスト、フレンズ、お気に入りなど、様々なウェブサービスがそのような顕示性を成り立たせる機能を用意していることを忘れるべきではないだろう。