最近の読書

リハビリ的に徐々に硬い本も読んでいる。英語文献はあんまり手を出してない。論文を一つ読んだくらいだ。
ベーシックインカム 分配する最小国家の可能性
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フリー~を読んだ流れで労働・仕事問題に興味があるのでここ数年話題のベーシックインカムについての本を初めて手を出した。というか生協で衝動買いなのでベーシックインカム(以降BIと略)の入門としてはちょっと難しい本。というか立岩真也の文章を始めてまともに読んだので相当に面食らった!!なんだこの文体は!!私的所有論はずっと読もう、読もうって思ってたけど、この人はいつもこういう文体なのか。十分に論理的なのだけど、口語的に冗長というか、「何が問題か。うんぬん、これがしかじかである。私はしかじかと述べた」というカンジで難しいのか、優しいのか分からない不思議印象。
さて本の内容についてだが、この本は三部に分かれている。第一部は立岩自身の立場から考察したBIの評価。第二部は斎藤拓(おそらくは立岩氏のお弟子さんでは)による政治哲学におけるBIの規範的正当化の話。第三部も斎藤によるこれまでの日本国内のBIに関する言説のまとめ。
まあ普通に頭から順番に読んだけど、内容からすると第二部、第三部、第一部と読んだほうがいいかもしれない。というか立岩による第一部の浮きっぷりがすごいというか、これだけ別物だろってカンジの本だ。いちおう第一部でもBIの基本理念やその正当化の理由などを述べているが、それは第二部の方がわかりやすい。そして第一部でのメインはBIに対する立岩による細かいツッコミなんで、彼の哲学やこれまでの活動を理解しないと難しい。全体的な印象では立岩氏はBIに消極的に賛成しているが、福祉制度や再分配としてそれだけでいいのかと何度も繰り返している。BIは周知の通り働く/働かざるを問わず所得の再分配を行うが、立岩は所得だけではなく労働と生産物も再分配したほうがいいのではと述べている。さらに身体障害者などのハンデキャップ(本文では「負の内的賦与」と称される)を持つ人々に対する分配に関して、BIは困難な問題に直面すると指摘している。
以上のように立岩はBIにそれほど積極的ではないのであるが、その理由は根本的な彼の哲学的な立場にあることを最初の方に明言されている。というか、本当に最初に「オレはそもそもBIの政治理念の根本原則を受け入れないから」と書かれていて結構あせった。だからこの本は少なくともBIの入門書とは相応しくない(笑)。それでは立岩はどのような立場にあるのかというと、『私的所有論』などを読んだ方ならご存知の通り、彼は一般的な所有権の概念を認めていないのである。一般的な所有権の概念、もしくは我々が自明のものと考えている所有権の概念とは、遡るとロックの思想に辿りつくのではあるが、雑に言えば「オレのカラダはオレのもの。オレが作ったものもオレのもの。」というカンジ。要するに自らの身体と、その身体の行使によって得られる生産物に関して当人は所有権を有するというものである。この所有権概念はある程度、現在の社会によって認められているし、みんなある程度は自明に思っている。ところが立岩はこの発想が論理的に自明ではないので、必ずしも認める必要はないと主張しているのである。
この点で多くのBI論者がリバタリアン的な自由と私的な所有権をその政治思想の根幹に置いているのに対して、立岩氏の立場かなり異なったものだということになる。まあそもそも何よりも平等を重んじると彼は言っているので、この違いは明確にもほどがあるだろう。
彼自身の思想とBIに対する論評に関しては議論が多くありそうだが、とりあえず以上として、第二部の話に移る。第二部に入りようやく普通の学術書っぽくなる(笑)。ここでは斎藤拓氏が政治理念としてのBIとその正当化について述べている。だから具体的にBIをどのようにするのか、いかにお金を収集して分配するか、という話はほとんどない。つまり、なぜBIなのか、なぜBIが規範的に正しいのかが説明されている。基本的な議論はベルギーの政治哲学者、ヴァン・パリースの論に沿う形でなされるが、斎藤氏本人の言によれば、斉藤氏のBIの主張はよりリバタリアン的で市場主義らしい。
BIの正当化において、おそらく一番重要な観点としてヴァン・パリース「資産としてのジョブ(Jobs as Assets)」という考えかたがあげられる。「乱暴に要約すれば、人々は『ジョブ』という地位を占有[occupy]することによって社会的財産(の一部)を専有[appropriate]しているという説明である」(199)ということ。この点は人によって感覚的に理解できる人とそうではない人がいるが、私としてはよくキモチが分かる。多くの人々は天然資源や自然物から得られる恩恵に関して再分配することをためらわないと思われるが、仕事によって得たものを再分配することには多少のためらいがある。自分が働いて得たものだから自分のもので当たり前という感覚だ。しかしながら、仕事や労働といっても何も自らでゼロから作り出したものではない。自然や天然資源の恩恵は当然として、過去に蓄積された人間の科学的知識・技術、営業や販売における知識・技術といった様々な恩恵を受けて人は仕事をこなしているのである。よって「労働者は生産要素としての労働そのものに対する(限界貢献に応じた)報酬を受け取っているのではなく、『ジョブ』という地位に付随する身分給を受け取っているのだ」(199)ということになる。現在、職を得て賃金を得ているものは、彼の能力や知識を行使した労働の結果の給料を貰っているのであるが、それは彼の知識や労働の結果だけではなく、様々な蓄積の結果でもある。またそのような仕事と賃金を得ている身分にあるものは、その身分にあってこそそれらの知識を生かせるだけであり、他の身分においてはそれらの知識は役に立たない。いくら医学の知識があっても免許がなくては開業できないし、音楽の知識や作曲能力がいくらあってもそれらを仕事にできる立場にないとお金には返られない。そのように考えるとある職、ジョブを得ているというのは、ある意味では各人が自ら生み出したものではないもの(この文脈では「ギフト」と称されるらしい)を独占していることになる。だから、BIによって働いてないものにも所得分与をなすべきだと、乱暴にまとめるとこんなかんじだ。
斎藤氏の議論は非常に丁寧かつ分かりやすかったが、やはりリバタリアン的側面が非常に強く、共感を抱けるものではなかった。その分、立岩氏の弱者に対する配慮への関心が非常に際立って感じられた。個人的にはBIにはなんとなく賛成なんだけど、やはりそれだけでいいのかというとそうは思えないというのが正直な感想だ。
さて第三部だが、これは良いまとめであった。ここ何年かのBIの議論を網羅しているように思えるし、学術書に限らず一般論壇、さらにブログ、はてや2chの議論まで追っている斉藤氏の情報収集能力に感服するまでだ。この第三部を読んでから、気になった本を参考文献として読んでいくことで日本でのBIの議論に追いつく事ができる。まあなんというかある意味でBI周辺の議論は有象無象すぎて大変そうなんだが。