最近の乱読

実家に帰ってきて、いろいろとバタバタとしているから、論文をじっくり読む機会がなく、そのかわり適当にある本を読み散らしている。
父の本棚にはとりあえず売れている新書の類はほとんどあるから、とりあえず読む本に困ることはない。とは言いつつも、ハズレを引きたくないので、かなり選んで読んでいる。昨今のいい加減な新書は読んだほうがあたまが悪くなりそうな気さえするからだ。
今回は実家に持って帰った本の記録をつけておこう。
職業としての学問 (岩波文庫)
マックス ウェーバー Max Weber 尾高 邦雄
4003420950

ウェーバーの有名な講演である。第一次大戦後のヤンガー・ジェネレーションに蔓延する反知性主義と「体験erlebnis」を求め、教師よりも指導者を欲する風潮を一喝して批判した講演である。ワイマール共和国から第三帝国に至る歴史を後から見たとき、ヴェーバーのこの批判は有効に作用しなかったと思われる。なんだか、当時のこの反知性主義と体験への欲求というのは現代における自分探しにも似たところがあり興味深い。とはいえ、学問の道を志す者にとっては、冒頭に触れられるアメリカの大学制度とドイツの大学制度の比較は現在にも多少似通ったところがあり、参考になる。アメリカのような専門分化した学問組織における研究者は「ちょうど工場主にたいする工場労働者のように、研究所長にも依存していることになる。なぜなら、研究所長は、当然のこととして、研究所は「自分の」研究所であると考え、したがってかれはそこの支配者だからである」と。これはまったく現在の状況と同じであろう。ドイツの伝統的な研究者、学者と違い、現代の大学制度においては「労働者の生産手段からの分離」が起こっている。だから、基本的に研究者であろうと、労働者やサラリーマンとさほど変わらないのである。かといって、ウェーバーは伝統的なドイツの大学制度が良いとも思ってないようだ。というのも、そこでは研究者の卵は学位をとったら、私講師という不安定な地位として働きつつ職を探さねばならないからだ。現代の日本の大学制度はこの二つの中間あたりにあると思われる。
しかしなによりもウェーバーのこの講演で聞き苦しいのは、以下のくだりである。「大学に職を奉ずるものの生活はすべて僥倖の支配下にある。若い人たちから就職の相談を受けたばあいにも、われわれはかれにたいして自分のことばの責任を負うことはできない。…君は凡庸な連中が年々君を追い越して昇進していくのをみても、腹も立てず気もくさらずにいられると思いますか、というふうに念を押しておかなければならない。」いやー耳が痛いというか、苦笑してしまうというかw
学問における僥倖の支配はいろんな側面であるとウェーバーは言っているが、自らの学者としての成功も僥倖の結果であると言っている。ウェーバーみたいな大学者であってもだ。だから本当に大学に職を奉ずるものは、とにかく期待をすることは禁物だということだろう。なんというかまあ、今も昔も変わらんですなとしか言えない感じであった。大学院に進む方には一読をお勧めする(笑)。

英語コンプレックス脱出 NTT出版ライブラリーレゾナント004
中島 義道
475714086X

中島先生の英語コンプレックス脱出の体験記。中島先生は哲学者としてあまり評価できないが、怨念がこもった私的な体験のエッセイを書かせると彼ほど面白い人はいない。小谷野先生と同じくらいの情念を感じる(笑)。この本は日本の英語教育について書いた昔のエッセイである1章、2章に加えて、コンプレックスを脱した後の中島先生が自らの体験を振り返る3章、4章から構成される。前半はまあ結構ありがちな日本人論であるから聞き流すとして、一番面白いのは第3章である。
以前から中島先生は変な人だなと思っていたが、やっぱりこの人変だ!確かに昔の人たちが英語や西洋に対するコンプレックスを強く抱かざるを得ない状況にあったことを理解しても、彼の西洋に対する愛憎っぷりは度が超えているというか、極端だというか。秀才として英語の試験では高得点を取りながらも、話下手で英会話が得意な姉のようにはコミュニケーションがとれないことを負い目に感じた若き中島少年は、電話帳で片っ端から英語の人のところへ電話をかけ、開口一番I am a student of Kawasaki Senior High School. I want to learn English. Please teach me English.と言ったらしい。ほとんど電話は切られたらしい(笑)。そりゃそうだ、普通にヒクよ。しかしながら、一件だけ了承を得られた人がいたらしいが、行ってみると教会だったから止めたと。
このほかにも中島先生のコンプレックスとの格闘のさまざまな面白いエピソードが書かれているが、それは読んでのお楽しみだから書かないことにする。しかし、この本がただの英語教育の本を超えて興味深く読めるのは、より一般的なコンプレックス克服の体験記として読めるからである。世間的に見れば彼は英語が苦手なんてことはなくて、ぜんぜん英語が得意な人のはずである。それにも関わらずそのようなコンプレクッスに至った理由を自己分析をしているくだりは、コミュニケーション一般で悩みを抱えている人にもかなり参考になると思うし、何よりも似たような悩みがあるとして救われた気持ちになるであろう。
おそらくコンプレックスというのは、「ある価値観が良いものだと思う」という信念と「その価値観において自らが悪いものだと思う」という信念の衝突なのだと思う。両者を肯定するならば、その人は血の混じる努力を強いられることになる。後者を否定するために、前者を否定することはルサンチマンの発露として自己欺瞞を感じる。このようなジレンマに苛まれたとき、人はコンプレックスとしてある価値観とその価値観における自己評価が整合的に収まらなくなるのであろう。
中島先生はコンプレックスからの脱出に関する一般的な5つのテーゼを提出しているが、私が思うに何よりも疑ってみるべきなのは、前者の価値観と後者の価値観が本当に同じ価値観であるか、否かである。中島先生としては「無理につじつまを合わせることをやめる」という主張をしているが、人がそのように価値観に対して複雑な感情を持つとき、その同じ価値観だと思っていたものが別個のものである可能性があるだろう。例えば、中島先生の場合は「受験英語能力」と「英会話コミュニケーション能力」という価値観、ものさしは別だということだろう。そして自らが一方の価値観において劣っているという認識をしても、他方においては特別劣っているという認識がなければ、たいていのコンプレックスを改善するように思われる。もちろん、この作業は口で言って理解できるようなものではなくて、まさしく体験を通じて学ばなければならないだろう。そして人間というものはひとたびあるコンプレックスを解消すると、他のコンプレックスに対しても似たような方法を取りながら解消、改善できるように思う。自分のことを振り返ってみると、やっぱそういう経験を何度か経て今に至っているように思われるからだ。たいていの人は大人になると、個々の事例に関する価値観は複数あることが自然と理解できていくものだと思っている。コンプレックスは、確かに中島先生が言うとおりプラスの側面とマイナスの側面を両方あるのだから、プラスな部分を役立てつつ、一般化したコンプレックス解消の方法を絶えず念頭に置きながら生きていくほかないのであろう。