研究生活カイゼン!プロジェクト第2回-Store概論

さて前回続けてSearchのことはまとめたので、今回はStoreについて考えた。(全体の概論についてはhttp://d.hatena.ne.jp/shinimai/20071217/p1を参照)。
Storeとは何かというと、前回扱ったSearchの後にくる作業であり、集めた資料をいかに貯蔵して管理するかという事柄についてである。この項目についていつものようにid:tanakaxと議論をしたが、中々まとめにくい問題であることが今回分かった。我々の研究生活はその本質において循環的であるから、明確な線引きを行うことは非常に難しい。なかでもこのStoreの項目は我々の活動の渾然一体となっているさまをまざまざと見せ付ける。だから今回は概論として、細かい話には触れない。この問題について重要なものは大きく二つ、第一に我々がストアすべきものは何か、第二にストアするためのツールは何か、である。今回は前者について扱う。
まず我々がストアする対象の存在様態は大きくわけて二つある。この未完成のIT社会において紙と電子情報が我々のストアする対象の存在様態である。とりあえずストアするべき対象をその存在様態において分けてみると(この分類は明確なものではない)

  • 紙媒体
    • 自分の成果
    • 論文、書籍
    • メモ
    • 他人のレジュメなど

という分類がとりあえずできる。自分の成果とは、自分が書いた論文、書籍、発表資料などであり、これはストアするだろう(するべきか否かはわからない。しかしながら我々は感情的にそれらのものを所有したいと思うだろう)。
次に挙げられるのは、当然、他の人の論文や書籍であり、これらは我々の研究の資料(ソース)である。これをストアすべきなのは自明であるが、どのようにストアすべきか(つまり購入すべきか、複製物を所有すべきか、図書館から借りるべきか)は様々な意見があるだろう。この議題についてはこれ以上踏み込まない。
次の二つはストアすべきか否かについて異論があると思われる事柄だ。メモとは様々なものの類概念である。具体的には読書メモとかTODOリストとかスケジュールとかであるだろう。他人のレジュメなどとは、他人の作りしもののなかでも、論文や書籍といった形においてまとめられていないものの全体である。
これら二つのものは本当にストアすべきであろうか?中には容易に捨ててしまうものもあるだろう。またあるものはそれらを保持することを固執するだろう。この問題は、もっと一般論において「我々がストアすべき情報とは何か?」といったものにつながる。
以上の紙媒体は電子化しようと思えば可能である。つまりスキャナで取り込むということだ。しかしながら、現代においてはそれを完遂することは逆に非効率であることが多いだろうから、実際には現実的ではない。しかしながら、一部のものが電子化されるために、ストアするべき対象をその存在様態において考えることは非常に曖昧さを残すものである。ここで次のように、より一般的な対象として「情報」を扱うことによって「我々がストアすべき情報とは何か?」という問いを立てるべきなのだろう。
そうすると以下のように分類できる。

  1. 資料(ソース)
  2. 資料のメタ情報
  3. 中間物
  4. 成果物

極論から言うと、これらの全てのものをストアしなくても研究生活は可能である。つまり読み捨て、書き捨て、言い捨ての人生。おそらくソクラテスはかくのごとく人であっただろう。しかしながら、常識的に考えて、ほとんどの人は1と4をストアすることに関して同意するだろう。
問題は2と3である。これらをどの程度までストアするか否かには様々な意見がある。一方の極には、2と3をまったくストアしないという人がいるだろう。つまり読書メモ(3)はもちろん、文献リスト(2)さえもストアしない人もいるだろう。他方の極には、あらゆるメモもすべてストアする人がいるだろう(この派閥をストア派と名づけてもいいだろう)。
しかしながら、あらゆるメモをストアすることは非効率的なのは明らかである。参照性がない情報にストアする価値はない。また2をまったくストアしないこともまた非効率的であることが多い。往々にして我々は論文などの成果物の仕上げにおいて、参考資料リストを製作する手間がひどく煩わしいことを知っている。そのため2をある程度ストアすることは必要である。
しかしながら、ここで問題となってくるのは、2と3の線引きである。先ほど読書メモを3に分類したが、それもまた2と呼べなくもない。しかしながら、最低限必要な資料のメタ情報とは「著者名、タイトル、出版年、出版社(出版地:出版者)、(翻訳者)」である。というのは、これらのメタ情報が掲載されていないものを、我々は論文として見なさないからである。以上によって、2の必要十分な要素が「著者名、タイトル、出版年、出版社(出版地:出版社)、(翻訳者)」であることは理解されるだろう。
一方、3がそれらの2の要素以外のものであることも分かる。これらの中間物をどれほどストアすべきかは非常に人によって異なる。しかしながら、我々の研究生活が1から4へと向かう一つの情報の変容であることは理解できるだろう。つまり読書メモや論文草稿などの3は成果物である論文などの未完成形である。我々は3を育てることによって4を生み出す。
この点において一つの原則が導かれる。それは不用意に未完成の形態(つまり3)を放置するべきではないのである。つまり、どのような読書メモも草稿も4へと向かって変容すべきであって、中間物として留まることは、不健全である。このために我々が成すべき具体的なことは、あるプロジェクトにしたがって3をまとめたり分類しておく必要がある。場合によっては、常に完成稿を意識しながら3をストアすることだ(つまりフォルダで分類したり、完成稿のファイルにおいて常に保存することである)。
この原則を実行するための具体的なソリューションは様々であるが、この原則を守る必要があるのは明らかである(しかし何と呼ぶべきなのだろうか)。
一方、2に関して未だ問題がある。それは、我々はどの資料のメタ情報をストアすべきなのか?それは既読文献であるべきなのか?それとも購入済みの文献なのか?それとも既読、未読に関わらず、ストアすべきなのか?
これに関して我々は以下の見解に到った。まず第一に、購入済み/未購入という分類は我々の研究において非本質的である。我々が2の情報を利用する目的は、自らの論文の参考文献リストを製作するためである。単なる蔵書目録を作ることではない(つまり研究に不必要な情報は必要ない)。また、既読/未読といった分類も本質的ではない。というのは、我々は参考文献リストに挙げられるすべての文献を完全に読了するわけではない。部分的に読むことは多くある。
よって、我々がストアすべきである2についての分類は、その資料(ソース)を入手したか/入手していないかというより観念的なものである。「入手」するとは何かをここで明確に述べることはできない。おそらく、何らかの形でその資料の情報の一部を脳内に得ることであるだろう。しかしながら、この観点からストアという問題の一つの大原則が生まれる。それはストアすべきものは「記述的なデータ」であって「指令的なリスト(いわゆるTODOリスト)」ではない。後者はむしろ、積極的に破棄すべきである。「〜〜を購入する」といった指令的な情報を、それを現実化することによって破棄すべきである。一方、ストアすべき「記述的なデータ」とは、今後将来にわたって参照される可能性があるものである。
やはりかなり煩雑になったが、以上が今回の議論したことである。ストアに関してはかくのような様々な問題が複合しているように思われる。しかしながら、以上から我々がストアすべき情報とは、「今後、参照する可能性があるもの」であり、「指令的なリスト」はむしろ積極的に破棄すべきであることという大原則が明らかになったと思う。この二つを明確に区別することは非常に重要なことである。